牛のごとく、ノッソリ行きましょうや

新年あけましておめでとうございます。「芥屋ずぼら堂」です。ひさしぶりの、思い出したようなアップをさせるのが、元旦の圧力(笑)でしょうね。5時からカキとクリとともに本年最初の散歩を行い、さきほど戻ってきたことでした。民宿「天神堀」の前を通ると、迎春徹夜カラオケ大会の賑やかな歌声がしっかり響き出ていました。いや〜、このパワーには参りました! 不況どこふく風です。当堂はというとカラオケの歌声を背に、途上の大祖神社と薬師堂で、しおらしく手をあわせ拝んできたことでした。

さて、今年はうし年。大晦日にやっとのことで投函した年賀状には次のようなご挨拶をしたためました。犬さん牛さんをセンセーに、一刻一刻、一歩一歩を大切に生きていきたいと思っとります。


本年もどぞうぞよろしくお願いいたします。

朝の散歩が大好きなカキとクリ。散歩に連れ出す時の欣喜雀躍ぶりは365日、変わるところがありません。毎朝を至上の喜びとともに迎えるカキとクリには教えられること大です。

この年、激動の一年となりそうですね。こんな時は、時代とともに変化し続ける一方で、変えてはならないものを大切にしたいと思います。そして、できれば虎の動体視力と、あせらず騒がずという牛のノッソリをあわせた、「虎視牛行」でいけたらと思います。

 夜明けの散歩(芥屋 幣の浜)


それにしても、干支にしっかり「牛(丑)」を入れているアジアの智慧はすごい。馬でも虎でも鶏でもなく、ゆったり、ユーモアあふれる牛。正邪の別はどうでもいいや、ヒステリーをおこすのは損ですよ、といいたげな風情がただよっていますもんね。哲学者・田中忠雄さんは「馬には禅味があまりなく、牛にはたっぷり禅味がある」と書かれていますが、牛はまさに禅の修行者のよう。

そうそう、大晦日のNHK教育の「あの人からのメッセージ」という番組で、宮崎奕保禅師が生前の映像で「悟りとは平気で生き死んでいくことじゃ」と言われてました。すごい言葉ですね。淡々飄々と生き死んでいく。僕はこれこそが「牛の世界」と膝をたたいたことでした。で、そうか、と思い起こし、禅の悟りへの道を十枚の牛の絵で表した十牛図をひさしぶりに開いみました。改めて見ると、なかなかのもんです。特に、へんぽんげんげん(返本還源)というのはオマジナイのようで、いいと思いませんか。


十牛図

尋牛(じんぎゅう) - 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
見跡(けんせき) - 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
見牛(けんぎゅう) - 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
得牛(とくぎゅう) - 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。
牧牛(ぼくぎゅう) - 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
騎牛帰家(きぎゅうきか) - 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) - 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) - すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく。
返本還源(へんぽんげんげん) - 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
入鄽垂手(にってんすいしゅ) - まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。