自己の初期化

前日(8日)の「無意識の耕作」に引きつけられるように、禅僧・南直哉(みなみじきさい)氏が語っている言葉を読み返した。「心身脱落」によって、自意識が崩れた状態にまで降りて行こうとする禅の世界は、とても奥深い。

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「赤ん坊に返れ」という言い方があります。でも問題は、帰るのはいいけれども、帰っただけでは済まないだろうということです。帰って、それでどうするのか。何のために帰るのかと言った時に、その説明がなければいけない。「素直な赤ん坊の状態が、本当の自己だ」というような文脈にのせてはいけないと思います。それでは帰りっぱなしになってしまう。
我々がやろうとしているのは、苦しい、行き詰まった、あるいは問題だなと思える自己を、一度初期化しょうということです。そこからもう一回、新たな主体を起こそうということですよ。
言ってみれば、自己を再建するために、初期化しようというふうに考えたほうがいいと思いますね。初期化はゴールじゃないですから。自己の土台、自己の立ち上がる土台の部分を点検していくということだろうと思いますね。軌道がはずれたら修正していく、という“よすが”だと思うんですよ。
自分というものは、ふだんの自分とは違う視点からしか見えないものです。もっと言えば、自己を見る視点というのは、自己以前からしか見えない。その日常の自己なり、日常の自分なり、いつもの私というものを、全体として捉える視点がいるんです。それをつくりだそうとしているわけです。私が考えている坐禅とは、難しく言えば、そういうことですね。

*『やさしい「禅」入門』(新潮社)