無意識耕作の課題

一昨日は脳科学者の茂木健一郎さん、電通・消費生活研究センターの佐々木厚さんに、東京から来ていただいて研究会。そのあと、深夜まで痛飲咆哮した。その模様は、茂木さん、田村さんのブログに譲るとして、昨日はたまたま仕事に出る前のメールチェックを怠り、しかも昼過ぎになってはじめてパソコンをのぞいた。そうしたら、心因性の病で大学病院に入院中の姪からSOSのメールが入っていた。あわてて簡単なメールのやりとりをして、仕事のあと病院へ。彼女の気持ちを静めてあげることだけを考えながら、一時間少しゆっくりとした話をして、病院を後にした。心の病の奥は深く難しい。もちろん、クスリや言葉の力だけでは治癒できない。
不甲斐なさを噛みしめながら、重たい気分で家に戻った。そして、何気なく茂木さんのブログをのぞいたところ、先の研究会のことなども記した7日のクオリア日記に「人生、酒が上達するより禅行を深めた方が良いような気もする。なぜならそこには無意識の耕作があるからである。」というくだりがあって、「無意識の耕作」という言葉に目が止まった。
姪はまさに「無意識の耕作」という課題に直面しているのだ。じつは、姪の病を何とかしたいとの思いで、近所の禅寺の訪問をすすめ、ともに禅と瞑想の世界にふれ、何冊かの本を共有し一緒に読んできたという経緯があった。とりわけ、スリランカ初期仏教長老であるスマナサーラさんの本と言葉との出会いが、彼女にとって一条の救いでもあった。そして、3週間あまりの入院生活のなかで、姪は極力クスリに頼らず、病室で瞑想を行いながら、自己の再建にあたってきた。しかし、病院という特殊な空間への不適合もあるのだろう、どうもうまくいかないようだ。
茂木さんのブログを読んだ翌日、複雑な思いのまま朝一番で東京に向かった。そして今度は、手にした機内誌の養老孟司さんの文章に目がとまった。

・・・ただ、便利を享受するだけですむのか、置いていってしまうものはないのか、考える必要はある。“IT社会”は、いわば脳と脳をつなぐことで成り立っている社会。僕のイメージでは、海に浮いている氷山のてっぺん同士をつなぎ合わせているだけで、見えている部分よりはるかに大きな海面下の部分は忘れられがちである。海面下、つまり意識の下にあるのは体だ。体に何が起こっているか、脳は気づかない。脳がコンピュータの画面を追うのに熱中している間も、胃や腸は一生懸命消化作業をやってる。ときにはそれを思い出してやらなくてはいけない・・・(「旅する脳」)

養老さんは、概念(意識)の世界と身体(感覚)の世界の対比としてふれているが、身体は無意識の世界と一つながりである。養老さんの「海面下の部分を忘れるな」という指摘は、茂木さんの「無意識の耕作」とほぼ重なっていくように思う。
ヒトは意識生活と無意識耕作のバランスが崩れたときに、心の失調に苦しむことになるのだろう。けれども、無意識という荒地の耕作には、一定の時間とコツが必要なように思う。が、明日香、あせることはない。大丈夫だ!

*茂木さんブログ→ http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/
*田村さんブログ→ http://blogs.yahoo.co.jp/kaorutamu/37526435.html

スマナサーラ長老→
  http://www.j-theravada.net/5-chourou.html
  http://www.j-theravada.net/11-jthera.html