ひさびさの中沢新一。「モノとの同盟」は魂を揺さぶらずにおかない

このところずっと気になっていることがある。20世紀が「技術の世紀」として様々な便益と発展を生み出してきたことは否定しようがないが、21世紀に入って「技術」の神通力というか有難味が薄れ、技術それじたいに方向感覚が失われているように思えることだ。日本人あるいは東洋人にとって「腑に落ちる技術」とはいったどんなもので、いかなる思考によって生まれるものだろうか。

こんななか、中沢新一の「モノとの同盟」という文章に出会った。『緑の資本論』に所収させているものだが、“参りました”の一言である。『チベットモーツァルト』以来の、宗教「学者」の域を超えた、詩的直観あふれるリリカルな文体は相変わらずであるが、久しぶりに目にした中沢の文章は、時代や文明に対する危機意識で埋め尽くされていた。中沢の危機意識が向かうのは、グローバリズムの名のもとに膨張し続ける「圧倒的な非対称」でありそこから生まれる「国家の野蛮」である。国家や文明の野蛮を白日のもとにさらけ出したのが9・11テロあるが、彼は9・11テロに先立って、一神教世界における「技術」のありように、同様の“病み”を嗅ぎ取っていた。

中沢は、現在の「技術」は決して普遍的な内容をもつものではなく、近代のあるいは一神教の世界に固有の「光の哲学」(ものごとの本質が覆われている状態から、覆われていない状態、ことわりの明るい状態へと連れ出すことをめざす)というバイアスがかかっていると言う。

それに対し、東洋においては、光と闇が分離されない、陰翳をやどした、根源的で女性的な力を求めるなかで、西洋とは異なる「技術」のありようがあるはずだと指摘する。その具体的なありようは中沢も提示しえていないが、そのおおまかな方向について、彼は谷崎潤一郎にならって、「陰翳の礼賛」ではいかとする仮説を提示している。中沢は、物質でも精神でもない「モノ」の深さを知り、モノをじょうずに扱っていく「陰翳の技術」「エロティックな技術」にこそ、西欧近代の技術論を一変させる新しい技術論の可能性があると指摘する。

こうした中沢新一の思考はあまりに根源的すぎて、とてもその意味を十分には理解しきれていないが、私の関心事に引き寄せて考えると、そこに「感性的な技術」のヒントが隠されているように思う。「モノをめぐる根源的な思考は、すべからくエロティック」という谷沢潤一郎の世界からどんな技術が立ち上がってくるか、考えただけでもゾクッとしそうだ。


*『緑の資本論
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