魂のよか国に

水俣に住まれる『苦海浄土』の作家・石牟礼道子さんの新聞での言葉に目が止まった。言葉とともにある、道子さんのやわらかい眼差しと笑みをたたえた写真が素晴らしい。苦海に浄土をみつめてこられた方ならではのお顔である。しばらく鞄で持ち歩いた記事から写しとると ─ 。
「父は、忍び足でおかずを盗む猫にも説教をするような人でした。猫を前に座らせ、自分も正座をしましてね。『お前のような卑しい精神の猫は……。うちには置かん』と。だんだん頭を下げていく猫をみて、子ども心にも『卑しい精神』は一番いけないことらしいと思いました」
「科学など今よりずっと遅れ、貧しく、生きるに追われていたけれど、倫理的なレベルは非常に高かった」
「先だって(水俣病)の患者さんが市内の小学校で話をしたんです。その感想に二、三年生ですが。『死のうと思っていたけれど、あの人たちの話を聞いて生きる力をもらった』という作文がありました。地方の町でさえ、生きづらいと思っている子たちがいるんです」
「それから、患者さんが街中に出ると、いままでは無視されていたのが、『誰々さん』と声がかかるようになったんだそうです」
「二一世紀に手渡すことがあるとしたら、それは、人間の絆というか、魂の絆ではないかと思うんです」
「『お金』という文字が横行し、子どもの犯罪が増えています。まがまがしい世の中になっていくと思いますでしょ。国土を杜撰にしたから、人々の情緒が荒れてしまう。子どもの心を健やかにするには、国土を健全にすることです。産土(うぶすな)としての風土を」
「日本は“水俣”をきちんと受け止めるべきでした。病気の原因と経過の究明も治療も怠ってきた。いまからでも遅くない。膨大な費用と手間がかかるでしょうが、総力を挙げてやっておかないと、恥をかくように思います。」
「『魂のよか国』になれますでしょうか。なってほしいですけれど」
日本経済新聞 2006年5月18日夕刊)

「生きる」とはどういうことか、深く考えながら噛みしめたい言葉である。