映画『明日の記憶』を観る

ふだんより少し早めに仕事場を離れ、『明日の記憶』を観た。若年性アルツハイマーをテーマとして取り上げ、社会的な話題ともなっている作品だ。主人公の渡辺謙が、原作に出会い、ぜひ作品として残したいということで、自らもエグゼクティブ・プロデューサーとして制作にあたった。たまたまチャンネルをあわせたNHK教育の「福祉の時間」で、この映画の試写会において渡辺謙と若年性アルツハイマーの患者さん及び支援者との交流会のもようを目にして感激した。いままでと全く異なる「渡辺謙」に出会い驚いたことが映画を観ようと思ったきっかけである。
ラストシーンが素晴らしかった。
夢と現実のはざまを往って戻る(文字通り橋と川がそこにあった)様は、一言で言えば「ファンタジー」だと思った。主人公がその妻・枝美子(樋口可南子)に出会った窯元を、枝美子の若い頃の「幻」に導かれながら赴く。恐らく世上での最後の記憶として、自分の粘土作品(コーヒー椀)に「枝美子」という文字を書き、それを、同じくアルツハイマーに冒されている師匠(大滝秀治)とともに庭の焚き火で焼き上げる。かがり火のもとでの大滝の放吟「東京ラプソディー」がこれまた絶妙で、演技を超えていた。揺れる炎をうけて輝く主人公・佐伯雅行の笑顔がまたなんとも良かった。あれは、この世のものなのか、別な元の世界に行ってしまってのものなのか。いずれにしても、「生きる」佐伯の姿がそこにはあった。そして、翌朝、枝美子が窯元に迎えに来るが、もう既に夫は世上の記憶を完全になくしており、「失礼ですが、どちらさまでしょうか」という言葉とともに妻に挨拶をする。そして二人は静かに橋を渡り、ふもとに降りて行く(夫の手には「枝美子」と書いたコーヒー椀が大切そうにもたれている)というシーンで幕は下りる。
もうひとつ、佐伯が妻の記憶の始まりである窯元を訪れるきっかけを暗示するシーンもよかった。病の進行をおさえるために通っている陶芸教室で、ほんの数秒前の記憶すらなくなっていることに佐伯はがく然とする。記憶というか、時間の厚み、過去のない、究極の「いま」しかそこにはなくなっていた。そこで気力をふりしぼり、「最後の記憶」に向かって窯元へ向かったのであろう。
映画が終わって最初にうかんだのは、アルツハイマーで亡くなった親父のことである。父も記憶がなくなっていくことについての苛立ちや不安感にさいなまれていたことを思い出してしまった。父が残した日記には、その記憶が綴られているはずであるが、まだ開くことができないままでいる。
釈迦の教えでは、ものも、時間も、意識も、記憶も全ては河のごとく流れ、変化しつづけるという。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。過去も明日もない。「いま」を生きるしかない。「死ぬまで生きるから別にいいじゃないか」というのが「無常」の世界だ。禅の世界では、妄想につながる記憶を蓄積しない状態を、一つの悟りとして捉えているように思う。でも、凡夫たるワタクシは、記憶が瞬間に揮発してしまう世界を具体的にどう生きていけばいいのか、はたと困ってしまう。今度、お釈迦様に合うことがあったら聞いてみるしかない(笑)。

http://www.ashitanokioku.jp/
http://www.toei.co.jp/movie/ashitanokioku/index.htm