伊都国への想像力

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糸島交流サロンにおいて、志摩町にお住まいの写真家・松尾紘一郎さんに「写真でみる糸島の中の渡来文化」についてお話をしていただいた。松尾さんは、写真集『伽耶から倭国へ−可也山か ら見える国−』において、可也山のそびえる地、伊都国における伽耶からの渡来者の足跡を丹念にたどりつつ、伽耶加羅系統の遺跡や地名を手がかりとして、糸島(伊都国)の原風景を歴史カメラ紀行としてみごとに再現された方である。志摩生まれ・志摩育ち、生粋の志摩人である。JALを定年まで勤められた後、郷里の志摩町に戻ってこられたのだという。
サロンではプロジェクターを通してたくさんの写真をご紹介いただいた。朝日・夕日に映える海や山、山の頂から海の向こう側に遠望できる壱岐対馬の島影、伽〓の人々がこの地に残した山城やドルメン、、、参加者30名でこれらに食い入るように見入ってしまった。お話の冒頭では、伊都国についての魏志倭人伝の記述や、「此地は韓国に向かい、笠沙の御前をまき通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉(いとよ)き地」という『古事記』の記述をご紹介いただいた。写真とあわせ、日本建国の時空間に連れ戻していただいたような不思議な気分を味わうことができた。写真って凄いと改めて思った。
そして印象に残ったのは、この国の歴史が、韓国(からのくに)の出自を消し去ってきた歴史であるとの松尾さんの指摘だ。たとえば、唐津(からつ)、唐泊(からどまり)、唐人町(とうじんちょう)という地名を、我々はつい「唐=中国」との関連付けで納得しがちであるが、それはもともと「加羅・韓=朝鮮」であったものが、為政者によって塗り替えられたものだという。白木神社ももとはというと新羅神社だそうだ。
そうした指摘にハッと思ったのは、以前から気になっていた、周囲の人々の芥屋の人間に対する一種差別的な言い方である「芥屋とうじん」という表現の由来についてである。これまではてっきり、「とうじん」→「唐人」→「中国人」と連想・推測していたが、松尾さんの指摘と重ね合わせ、「とうじん」→「唐人」→「加羅人」→「朝鮮人」というふうに考えると、「芥屋とうじん」の本当の意味や背景が理解できるような気がする。
いずれにしても、松尾さんのお話をきき、写真をみながら、糸島から伊都国へと想像力を広げ、足下の歴史を再編集・再体験していく必要を痛感した。その一つとして、消されてしまった「韓国/朝鮮」の出自を、地名や海・山・川の名前として発掘・再生していく作業がぜひとも必要だろう。韓国からの留学生の協力も仰げば、文化理解のための国をこえた面白い取り組みになると思う。
「歴史とは現在と過去との対話である」というE.H.カーの言葉を久しぶりにかみしめた一時であった。

*松尾さんの伊都国写真集「伽耶から倭国へ」のページ
 → http://members2.jcom.home.ne.jp/kaya.shima.jz6/