倫理観の再生産ができていない

 このところ、「教養」とか「倫理」とか、近代合理主義や産業社会の中では死語に近い状態であった言葉が、産業社会の衰退状況の下で再び脚光を浴びつつある。個人的にもそうした書籍を開いたり、机の周囲に集めたりということが増えている。こうした折、東大寺別当でありイスラム学者でもある森本公誠氏のインタビュー記事が目に止まった。


「責任感の薄い企業トップや育児放棄する親など、倫理観が伝承されていない、と感じます。かつて子どもは『嘘をつくと地獄の閻魔様に舌を抜かれる』などど、日常的に教えられましたが、今はどうでしょう。嘘をついてもばれなければいいとか、責任を他人に押しつける風潮が強くなっている気がします」

「倫理観を育てるのに必要なのは仕付けだと思います。難しく言えば訓育。ある中学校で弁当の時間に、手を合わせて『いただきます』というのが宗教的だからしなくていい、という話を聞いたことがあります。代わりに笛の合図で食べるというのではあまりにも侘びしい。恐々教育の排除の影響でしょうが、これは宗教以前の問題でしょか」

日本経済新聞 2006.8.17 「イスラム史に学ぶ 森本公誠さんに聞く」


社会や経済の衰退は「再生産」の破綻に始まることはもちろん承知しているつもりだが、「倫理観の再生産」には虚を突かれた感じであった。世間の常識や教養が伝承・継承されなくなった末にどんな社会が立ち現れてくるか ─ 。経済学者・経営学者のみならず、我々はは「倫理」について改めて深く考えるべきであろう。

それにしても、最近、日経紙上のみならず、宗教者の発言やインタビューが非常に増えているように思う。経済や市場といえど、もはや「こころ」や「倫理」、あるいは「信」の部分をないがしろにできなくなったという危機感の現れであろう。産業社会の衰退は、精神の空洞化に深く結びついている。