宇井純さんが逝って

宇井純さんが、きょうの未明になくなった。享年74歳である。東京における計8年におよぶ大学・大学院生活において、ボクの宇井さんからもっとも大きな影響を受けた。いろいろぶつかりもしたけれど、多くのことを教えていただいた。心からご冥福をお祈りしたい。
高校まで田舎にいて、ほぼ無菌状態で東京にぽっと出てゆき、「社会」に最初に出会うきっかけとなったのが、都市工学科助手であった宇井さんが東京大学で主催していた公開自主講座「公害原論」であった。工学部大講堂でほぼ毎週開かれていた、市民・学生手作りの自主講座にふとしたきっかけで参加したことで、今から思えばボクの人生は大きく変わっていったように思う。
毎回、公害の現場から被害者や来ていただいた運動家の話を交えながら、宇井さんは「公害問題に第三者はいない。加害者の立場にたつか、被害者の立場にたつのかどちらかだ」「大学の関係者のほとんどは、公害企業やお上の側にたった御用学者でしかない」とじつに鋭かった。そうした説法が、田舎からぽっと出の若者の心をゆさぶらないはずがなかった。
自主講座に足をはこぶうちにいつの間にか、実行委員会のメンバーとなり、様々な公害問題や大規模開発、発電所立地などの現場を宇井さんや自主講座の仲間とともに歩く経験を重ねていった。その過程では、論理や知識の次元での整理をそっちのけに、まずは「社会」を体感・体験することに、若いエネルギーを投入していたことを今更のように思いだす。
そうした中で接していた宇井さんは、加害者に対峙する時は不動明王のごとく怒りを表わす人であったが、被害者とともにあるときは柔和な朴訥とした表情で、うれしそうに酒をかわし、込み入った話にもじっくり耳を傾ける、まさにお上や官とは対極の存在であった。「へ理屈を言うより、まずは手を動かせ」が口癖で、講義録の帳合・製本にしても、自らが率先して黙々とあたっておられたことを思いだす。
ある時、地方巡回講座の旅先のホテルの一室で、宇井さんの衛生工学研究者としてのライフワークとなった「酸化溝による下水処理」の“特別講義”を夜中に受けたこともあった。それはボクが、宇井さんが実験助手を担当されている都市工学科衛生工学コースの学生であることからの教育的配慮でもあったのだろう。けれども、残念ながらその講義は生かされじまい(期待はずれ)となってしまった。
その酸化溝をはじめ、宇井さんはスモールサイズの工学や適正技術、もう一つの技術(オールタナティブ・テクノロジー)の重要性についても、我が国でいち早く注目されていた。ユーザーや社会の視点と、「土」の感触を忘れない、文字通りのシビル・エンジニアであったのだ。宇井さんというと、存命中は政治・経済・社会の領域での仕事にばかり注目が集まっていた。しかし、今にして思えば、宇井さんの学者的というより職人的な感覚と発想に基づいた循環型の新しいエンジニアリングのありかた、たとえば「感性の手づくり土木」の展開や教育について、一度、アイデアを尋ねておけばよかったとしみじみ思う。

宇井さん逝去の報に接し、久しぶりに青年の日々に思いをめぐらした。感謝とともに合掌。