生命哲学者・茂木健一郎


茂木さんの講義を、100名余の人びととともに聴いた。きょうの茂木さんのパフォーマンスは、いつものような脳科学者ではなく、完全に生命哲学者としてのモードであった。生命の本質は、つねに激しく、豊饒で、ほとばしりに満ちている。「知」もまた、こうした生命としての人間の本質や根源的な欲望にそうかたちで創造され進化しなければならない。このことを、茂木さんは、3時間近くにわたって熱く語った。
まるで辻説法のような茂木さんの語りに、ボクは3つの旋律を聴き取った。ひとつは「エピソードとともに知を味わう」、ふたつは「生きることに根ざした知はとてもセクシーである」、みっつは「社会を変える強烈な意志は知からやってくる」。
科学や哲学、芸術の世界における偉大な仕事には、創造の起源を暗示するような(場合によっては奇怪な)エピソードがあって、茂木さんはそこに大きな興味を寄せているという。カントの処女作は57歳であること、モーツァルトは幼少時に見せものとしてのデビューを飾ったこと、アインシュタインは歴史的な論文を発表したあとも7年間にわたり特許庁の役人をしていたこと、ペンローズは鍵束の中から鍵を見分けるのに鍵山の形を凝視するような人であること、、、その人をとりまくエピソードをたくさん披露された。学問とそれを生みだした人のおかれた状況や文脈を切り離すな。科学の知にしても、背後には必ず「存在」が隠されている。最近の日本人は知の営みにおいて生きる意味をつきつけようとしないけれど、いまこそ「生きる」ことに根ざした知の復権が必要ではないか、というのが茂木さんの主張だ。
茂木さんは、「生きる」ことに根ざし、生命の衝動に突き動かされた知はとてもセクシーだという。学生の「生命の哲学と分析的・客観的な知との差をどう考えればいいのでしょう」という質問に対し、「分析的・統計的な描像には生命はやどらない、セクシーじゃないよね」と明快に答えたのだった。エピソードともに知を味わおうというのは、無機的な知識としてではなく、生命の飛躍をかけたぎりぎりの営みとして知をとらえ・生みだしていこうという、茂木さんならではの熱い宣言でもあるのだ。生き様としての知を実践せよ!
また、Google を引きあいに出しながら、知の大航海時代にあって、長いスパンで、人間の本質や根源的な欲望にそう形で知の営みを展開していくことがとても重要になってきているとの指摘も深くうなずくものであった。長大な展望と深さをもった知こそが社会を変革していく強烈な意志となるという茂木さんの主張は、とてもラジカル(根源的)だ。全ての情報を free(自由、無料) にという Google の掲げる理想は、人類の進むべき方向に沿ったものであり、そこに茂木さんは知のもつ力と可能性を感じるという。日本からそうした思考と行動が出てこないのはなぜか? 日米の文明力の差はとんでもなところまで開いているのではないか。平均値や凡庸化に向かわせる社会の圧力を拒絶して、人類が進む方向を信じ、尖んがって生きよう! 談合社会を脱し、維新期「明治の精神」に立ち返ろう!
じつは、「クオリア日記」を読みながら、最近の茂木さんは、吹っ切れたというか、スイッチが入っているなぁという思いを募らせていたが、実際にそうであることを確認できた。また、彼の書きつらねていることと語りが、まったく同じ文体であることに、感銘をうけずにはおれなかった。茂木さんの、格闘技としての知を生の実践として生き、「知の野蛮人」(これは茂木さんご自身の表現)として世界と向き合う様に接していると、フリージャズかなにかの「音楽」を聞いているような感覚にとらわれた。
そして、学生とのやりとりのなかで、冷静な三人称的な語りと、「おまえさぁ、そんなんじゃ、ダメだよ」「おれはさぁ、、」といった一人称での語りとが交互にクロスしながら展開していくのが、エピソード的でとても面白かった。茂木さんの生命の飛躍の現場に立ち会ったといったら言い過ぎか。

 *茂木健一郎 クオリア日記→ http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/