いのちの水「とっけん生水」は蘇るか


きょうは定例の海岸清掃はなしで、かつて国民宿舎芥屋があったところの裏にある「とっけん生水(しょうず)」一帯での作業となった。とっけん生水は、かつて「この水を飲まないと死ねない」とさえ言われたという霊験あらたかな清水で、地元の人々に死に水として大切にされたという。試しにインターネットで検索してみてみると、いくつかの名水リストに出てくるので、それなりに知れ渡っていることがわかる。
しかし、地元の人によると、死に水として大切に扱われ、盆・正月に家内安全を祈願する霊水として珍重されるという風習が続いたのは昭和30年代まで。高度経済成長期以降はその習慣が急速にすたれていったという。崇拝されないどころか、現場はヘドロがたまり、清水の湧出も止まるという状態のなかで、昔話だけがかろうじて残るという寂しい状況となっていた。それを何とか「いのちの清水」として復活させ、地域活性化の象徴として生かせないものかということで、以前から一帯の清掃(ヘドロ除去、水脈開放)が懸案としてあがっていたものだ。
きょうの2時間近い作業の結果、かつてのようにとはいかないであろうが、細い流れながらも清水の湧出がはっきりと確認できるまでになった。また、ヘドロで目詰まりしていた地下水路が貫通してためか、すぐ下にあるため池とも通水が始まった。メデタシ、メデタシである。最初は半信半疑であったが、「とっけん生水」がかつては「いのちの源(生水)」であるとともに死出の旅へのはなむけであったという記憶が蘇るとすれば、結構おもしろいことになるかもしれないという気持ちになってきた。地域の創造と再生には、起源にさかのぼり、精神文化の原点に立ち返って、そこから新しい「物語」を語りはじめる必要があるのではないか。
そんな思いで改めて考えると、「とっけん生水」とはなかなか素敵なネーミングである。「生水」は「なまみず」という即物的なものではなく、あくまで「いのち(生命)の水」である。インターネットによると、「とっけん」は「特別な」「最高の」を意味しているようだ。漢字をあてれば「特権」か。これは、新しい装いのもとに、地域のひとつの拠り所や精神性の象徴として再生しない手はない。そして、いつ死んでも大丈夫なように(笑)、盆・正月に「じぶん生水(my life water)」を汲みかえ、肌身はなさずもっておくとういのも悪くないぞ・・・・いつものように空想が回り始まるのであった。