哲学の巫女が残した言葉

この1ヶ月ずっと、二人の女性の生き方が気になっていた。圧倒的な感受性と凛とした強さをもつお二人である。一人は、既にご登場いただいた宮城まり子さん。もうお一人は、この2月23日に46歳という若さで腎臓癌で亡くなられた池田晶子さん。
池田晶子さんは、ベストセラー『14歳からの哲学』をはじめ、30冊近くの著作を通して、存在とは何か、生死とは何か、ということについて、日常的な言葉で綴りつづけてこられた。写真をみると、「哲学の巫女」という呼称がまさにぴったりの美人だ。その池田晶子さんの死を知ったのは、日本経済新聞の下段の死亡記事においてである。そこには、淡々と事実が書かれているだけであった。そして、数日して池田さんの遺稿となったエッセイを週刊新潮で読んだ。コクヨの原稿用紙に100円のボールペンで綴られたというその遺稿には、宮城まり子さんの言葉同様、本質以外の何ものも混入していない。
池田さんは、週刊新潮の連載エッセイ「人間自身」の中に過去、次のような言葉を残されているという。


<人生というものを、生まれてから死ぬまでの一定の期間と限定し、しかもそれを自分の権利だと他者に主張するようなのが現代の人生観である。これはあまりに貧しい。自分の人生だと思うから、不自由になるのである。しかし人生は自分のものではない。生きるも死ぬも、これは全て他力によるものである>
<入れ替わり、立ち替わり、生まれては、死んでいる。繰返している。その繰返しの中に、この私もいる。来年は私がいないのかもしれない。何が存在していたのだろうか。永遠的循環の中の、一回的人生。いま生きているということ自体が、奇跡的なことである>


「哲学の巫女」には一度でいいからお会いしたかった。しかし今となっては、池田晶子さんが墓碑銘の傑作と絶賛した「次はお前だ」という言葉とともに、彼女の遺稿をはじめ作品を噛みしめ味わうしかない。
ここで「『ご冥福を祈る』なんて知ったこっちゃないわ」と言われるだろう。下のエッセイにあるように、ご自身の墓碑銘として「ほっといてくれ」「死んだ者勝ち」もお気に入りのようだったけれど、最終的には「さて死んだのは誰なのか」を選ばれた巫女さんのことだから。


池田晶子「墓碑銘」
本誌には墓碑銘と題された名物コーナーがある。故人の足跡や功績を概略で辿るものなので、墓誌という方が正確かもしれない。毎回上手にまとめてあるので、どうやって調べたのだろうと感心する。ひるがえって、いま私が死んだら、このコーナーを書ける人はいないな、いつもそういう感じでいる。大した功績はないし、仕事の本質、池田某という物書きは実は何をしていたのかということを正確に書ける人物はいないだろうというのも、一方の事実だからである。
でも連載している以上、義理でもそれは掲載されるだろう。どうしよう、困ったな、最後に勝手なこと書かれてもな。悩むところなので、いっそ自分で書いておこうとも思った。そして、連載が途切れた翌週にパッと切り換えて、本人筆で、かのコーナーに登場する。
これは実に清々しい。
とまで計画したことがあるが、あんまり縁起のいい話でもないので、実はまだ書いていない。担当によく因果を含めておこう。
それはさておき、「墓碑銘」と聞いて思い出す逸話がある。古代ローマだったか、現代のローマにあるものだったか、秀逸なものが存在している。向こうはこちらと違い、墓にいろいろな書き物を遺す習慣がある。死後に他人が書いたものか、本人が生前に言付けておいたものかは定かではない。
おそらくそれは一般的には、文字通りの墓誌として、その人の来歴を示すものだろう。いくつで結婚、何児を成し、かれこれの仕事に従事して、こんなふうな人物だった。
散歩代わりのお墓ウォッチング、人々はそれらを読みながら楽しく散策するだろう。墓誌、墓碑ウォッチングというのは、読む者には、その意味で究極の楽しみである。人生つまり、その人間の最終形が、そこに刻印されている。人生の〆の一言である。人は、記された言葉から人物を想像したり、感心したりしながら読んでくる。と、そこにいきなり、こんな墓碑銘が刻まれているのを人は読む。「次はお前だ」。
ラテン語だろう。そうでなくとも尋常ではない。楽しいお墓ウォッチング、ギョッとして人は醒めてしまうはずだ。他人事だと思っていた死が、完全に自分のものであったことを人は嫌でも思い出すのだ。それを見越してこの文句、大変な食わせ者である。
私は大いに笑った。この文句の向こうを張るならどうだろう。「ほっといてくれ」というのは、ひとつあるかな。私の人生がどうであれ、あんたには関係ないでしょうが。死後勝手なことを書かれたくない、死後に名を残したくないという人にはふさわしいでしょう。「死んだ者勝ち」というのも、なかなかいいですね。あんた方、生きてる者が勝ちと思ってるでしょうが、ほんとにそうかね?
完全に弔辞の逆であるが、「次はお前だ」というこの一言のもつ圧倒的な力にはかなわない。こんな文句を自分の墓に書かせたのはどんな人物なのか、それこそ想像力がかき立てられる。諧謔を解する軽妙な人物である一方、存在への畏怖に深く目覚めている人物ではないかという気がする。生きている者は必ず死ぬという当たり前の謎、謎を生者に差し出して死んだ死者は、やはり謎の中に在ることを自覚しているのである。あるいは、死者を語ることを含め、すべては物語であるという自覚。
これに比べて、我が国の墓碑銘めいたもの、「色即是空」とか「諸行無常」とか、書きたがる人はいますけれども、どうももうひとつですねえ。説明くさくて、謙虚でない。なんかまるで全部わかっているみたいである。まだそんなこと言ってんのという感じになる。こういうことを言いたがる人や遺族は、実は自分が死ぬということをまだわかっていないのである。
それなら私はどうしよう。一生涯存在の謎を追い求め、表現しようともがいた物書きである。ならこんなのはどうだろう。「さて死んだのは誰なのか」。楽しいお墓ウォッチングで、不意打ちを喰らって考え込んでくれる人はいますかね。
週刊新潮 2007.3.15)


池田晶子プロフィール
  → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%99%B6%E5%AD%90
池田晶子の言葉
  → http://www.hat.hi-ho.ne.jp/funaoto/link/ikeda.html