『存在の耐えられない軽さ』を観る

昨日、気になっていた『存在の耐えられない軽さ』をビデオショップで借りて観た。フィリップ・カウフマン監督による1987年のアメリカ映画だ。ほぼ20年ぶりである。案の定、ストーリはほとんど覚えていなかったが、観た時のズシンとした記憶だけはしっかり蘇ってきた。深い記憶とはこういうものかと妙に納得した。
1968年頃の激動のプラハを舞台とした相当にシリアスな作品である(映像のほうは非常に耽美的で美しい)。ドンファン的でハンサムな脳外科医と、まったく異なるタイプの異なる(奔放と純朴)二人の女性との三角関係を軸に物語が進む。もちろん、三角関係は二つ、三つとズレつつおり重なっていく。そして背景には、ソ連の軍事介入による抑圧的な政治体制の強化(チェコ事件)が描かれていく。
物語は、男と女の愛と性を起点として、安定と過剰、自由と抑圧、野生と文化というテーマをなぞっていく。脳外科医トマシュは、社会や規範の外へ超え出ていこうとする衝動につき動かされつつ、偽りのない行動を繰り返していく。人間の根源的な欲求を体現した、まさにドンファンである。
過剰なものを内に潜めた個という存在と、個をとりまく社会の側の存在性とのどうしよもないズレやネジレが、いつまでも決着のつけようがない形で描かれていく。そのいらだちが「存在の耐えられない軽さ」という反語的な表現として投げかけられているのだ。
さきの高村薫さんの社会時評に触発された書き込みをしていて、なぜこの映画のことを思いおこしたのだろう。「この時代と社会を動かしている言語感覚」を超え出る行為を意識せよということか。あるいは、茂木さん・梅田さん的には、web がつくりだした新しい空間のなかから「未来」へのポジティブな企てをなせということか。無意識界からのメッセージなので(笑)、そのあたりのことはもちろんわからない。
いずれにしても、連休モードで観るに重たい映画であった。しかし、オススメの映画だ。ただし、夜中にワインでものみながら、ひとりで観たほうがいいと思う。