『千利休 本覺坊遺文』を観る

『存在の耐えられない軽さ』と一緒に借りていた『千利休 本覺坊遺文』を観た。1989年の千利休四百年遠忌特別作品だ。なぜ千利休かというと、2週間ほど前、茶道裏千家家元の千宗室氏と茂木健一郎氏、白洲信哉氏(次郎と正子の孫、小林秀雄の孫でもある)の3人のおしゃべりをテレビでみて、千さんの話がとても面白くて、その時から利休のことがずっと気になっていた。それから、すぐ横で、このところカミさんがお茶の世界にハマっていることもある。
映画は、千利休三船敏郎)の謎に包まれた晩年を、愛弟子・本覚坊(奥田瑛二)らが解き明かしていくという筋書きである。その世界をひと言でいえば、「茶道とは死ぬこととみつけたり」という境地にいたった利休の凄さというか、人間は時として命と差し替えてでも探求していく価値を生きる存在でるということか。あるいは、「存在の侮れない重さ」とでも言えようか。
千利休 本覺坊遺文』は、戦国・乱世で、荒々しく粗野な武力が跋扈する時代であるからこそ、それとの緊張感で「茶道」が自覚的に形成されていったことをうまく描いていた。飛ぶ鳥を落とさんばかりの勢いであった太閤秀吉のもとで、その権力の庇護を受け、共犯関係にありながらも(武士たちは利休から手前を頂いた後、思い残すことはないと言って戦場に赴いていった)、利休ら茶人は権力の粗野・横暴には徹底して「美」の側から異議申し立てを行う。その軌跡と謎を追うというのが、この映画の主題である。
一番印象に残るのは、利休の晩年、山崎の妙喜庵で催された真夜中の茶会のワンシーン。狭い、明かりのない茶室に、いずれも後に秀吉に刃向かい、切腹することになる茶人(男)が三人。「『無』という軸をかけても何もなくならない」。そして、利休が室外の弟子・本覺坊に「手燭」と命ずる。手燭の灯が茶室の掛け軸を照らし出す。すると、そこには「死」の一文字が描かれていた。死を意識することで、雑念をのぞき、自省を深めることで「茶の道」の完成をめざしていくという、男三人による結社的盟約が交わされたのであった。その後は、秀吉との対立を厭わず、切腹を言い渡されると、それぞれ盟約をはたすべくきっぱりと自刃していく。
権力をほしいままにしている秀吉(芦田伸介)はというと、感情の高ぶりのなかで下した利休に対する切腹の命を、同様に軽い気持ちで取り消しを図る。しかし、利休はその申し入れを拒絶する。秀吉は「まさか」と不気味さが募り、「そこまでやらなくてもいいではないのか」とすり寄っていく。死をもって守るべき世界をもつ利休の決然とした態度と、美の基準をもたぬ秀吉が見せた恐れ・おののき・たじろぎの絶妙なコントラスト。これがこの映画のもう一つのハイライトであった。権力者は、その内実が空虚であるからこそ、利休のような「異」なる存在をそばに置き、権威を演出すべきことを知っている。秀吉は、そのことについて本能的な鋭敏さをもった男であったのだろう。
それにしても思わぬかたちで、日本的な美意識の一つの極北を照らし出す、とてもいい映画に出会った。「すべてをそぎ落として、最後の最後にの残るかたち」。それを極限において表現しているのが、お茶の道における様式美と、言語美へのこだわり(掛け軸の世界)であったというわけだ。また、「武士道とは死ぬこととみつけたり」(『葉隠』)にずっと先立って、お茶の世界がその境地を発見していたという発見は、われながら嬉しかった。