市町村合併についての違和感

志摩町民大学の番外編で、「市町村合併」について福岡県政出前講座が開かれるというので、午前中の大学での会議のあと、志摩町総合保健福祉センターに直行した。
ふだん気になっていながら、考える間もなくやりすごしている問題がある。その一つが合併問題。芥屋に移り住む前の2004年9月、糸島一市二町の合併は破談となった経緯がある。それが今年に入って、合併協議会の再設置に向けた合併調整会議(会長・松本嶺男前原市長)の動きが慌ただしくなり、7月20日は第一回会合が開かれた。新聞によると志摩町では11月にも合併の可否を問う住民投票が行われ、三自治体の首長は2010年1月1日の合併を目指すことで合意しているという。
ところが、志摩町のホームページをみても合併についての情報はいまだ一切掲載されていないし(前原市も同じ)、町報による内容開示もほとんどない。ということで、今回の講座はどうしても欠かせないということで参加することにした。
県の合併支援室担当者の説明と資料で、合併の状況、背景と効果、合併に向けたフローについて、一通りのことは理解できた。要は、地方分権推進(政策立案能力形成)、少子高齢化(専門職員配置)、日常生活圏の拡大(行政需要広域化)、財政状況の悪化(行政効率アップ)というのが、合併推進の基本構図である。ひらたく言えば、行政の専門性と効率性の実現のために合併が避けられないというわけだ。
しかし、どうもしっくりこないというか腑に落ちない。町民大学のある理事も発言されたが、これからのまちづくり・地域づくりは、町長、議会・議員、住民が、「どんなまちにしたいか」「どんな地域になりたいか」という将来像についてオープンに徹底した議論をし、「われわれのまち」のありようについてコンセンサスをつかみとっていく、その協働のプロセスこそが大事である。その結果で、合併しようということになればよし、いや合併しないままでいこうとなれば、それもよし。いずれにせよ、目的と手段、過程と結果の議論を混同しないことが大切だ。そのためにも、まちづくり・地域づくりに関わる関係者(ステークホルダー)が直接に会し、自律的な意志決定を行っていくことが肝要だ。
そこが、国や県のスタンスもそうだし、合併問題が地域におりてきた時も「賛成か反対か」の二者択一問題となってしまって、とても成熟社会とはいいがたい。感情的な議論(というより言いっ放し)の前には、合併問題を契機として、まちの将来について、多面的かつ冷静に検討を行おうという雰囲気にはほど遠いのだ。それぞれの地域は、行政サービスを展開していく場という側面にとどまらず、歴史性や文化的アイデンティティなど、その地域に暮らす人びとにとっては、人生という時間の流れのなかで、唯一無二の奥行きと広がりをもつ「かけがえのない」存在でもある。福岡県内でも最近、みやま市、みやこ市、嘉麻市など、時間を消し去った無機的な名前の「市」が相次いで生まれ、その名前に接するたびに不思議な感覚に襲われる者は少なくないと思う。
合併問題は、もとより行政すなわち「官」の専権領域ではないし「政策」の次元にとどまる話でもない。しかし、合併調整会議の非公開審議にあたり、「政策形成過程にあり、お知らせした方がいいと思う結果だけお知らせする」(合併調整会議事務局、7月21日 西日本新聞)という発言が出たり、合併調整会議会長である前原市長が、合併調整会議職員に対し「なぜ合併するのかを住民に説明するための資料作りでなく、どうしたら合併できるかという意識で仕事に取り組んでほしい」と訓示したと伝えられるなど(7月4日 西日本新聞)、どうもおかしいのだ。こうなると、住民説明会や住民投票は始めに結論ありきの“後出しじゃんけん”と言われても仕方ない。
歴史を紐解くと、明治の大合併は、近代国家として義務教育体制(小学校)を急いで作り出していくための国家基盤づくりという大義があったし、昭和の大合併も、新制中学校の設置管理、市町村消防、自治体警察の創設、社会福祉、保健衛生関係などを市町村事務として推進していくという明確な目的があった。では、今回の平成の大合併にそれらに相当するような大義を見出すことができるだろうか。
人口1万未満とか3万未満という基準数値をもとに、規模・能力の充実を求めていくというアプローチも、何のための規模・能力充実かという点が自明ではない。例えば糸島一市二町では、ごみ・し尿の処理や消防・救急の事務は広域行政による共同処理が既に行われており、合併推進の理由とななりにくい。職員・組織に期待される専門性についても、最近では縦割り(専門化・細分化)の弊害が表面化するなかで、総合性が強く求められているということをどう判断するのであろうか。
いずれにしても、これからの地域政策は情報処理や物理実験のように「ああすればこうなる」と、画一的な発想や線形的な手法ですまされるシロモノではなくなっている。効率面からみた行政の適正規模にしても、理念や手法の選択いかにによっては、常識的・平均値的な適正規模を超えてぐっとダウンサイズされる可能性もある(こうした事例は民間企業ではざらにある)。スピード・ビッグ・グローバルの奔流にさらされた20世紀とちがって、21世紀はスロー・スモール・ローカルの価値観をもう一度取り戻すべきではないかと思っている者にとって、合併問題はどうも違和感がぬぐえないのだ。


 *福岡県 市町村合併コーナー→ http://www.pref.fukuoka.lg.jp/somu/gappeiweb/index.html