ゴミ拾い初めで発見したもの

太宰府にでかける前、今年初めての海岸清掃(ゴミ拾い)を行った。芥屋の高山夫妻、岐志の久保さん、前原の有田さん、そして私の5名が参加した。
やることは、いつもどおり一時間ほど淡々と海岸のゴミを拾うのみである。時おり頭を上げ、可也山の斜め上方にある朝日をながめながら、今年もゴミを拾うことができる幸せ(笑)を感じたことだった。「朝のゴミ拾いは、ひとを哲学者にするかもしれない!」なんて内心つぶやきながら ─ 。

年明け早々の心がけが稔ったのか、きょうは2つの出会いがあった。最初は、なんとマレーシアから流れてきた、ミネラルウォーターのペットボトル。韓国のものに加え、このところ顕著に中国のものが増えてきているが、マレーシアからの漂着ボトルは初めてお目にかかった。ゴミという認識より、「よくぞマレーシアから」という思いが先に出た。以前はヤシの実の漂着によって、南の国とのつながりを感じ取っていたのでろうけれど、それがペットボトルという媒体に変わっただけかもしれない。

もう一つは海亀。ゴミを拾い進めていると、突然、異臭がぷーんと伝わってきた。あたりを見回すが何もない。もう一度見渡すと、臭いの起点に海亀の亡きがらを発見した(海亀の死体に出会うのは、これで二度目である)。さきほどは岩かと勘違いしたのだった。死に場所を求めて海岸に上がってきたのか、それとも息が絶えて波によって海岸に打ち寄せられたのか、知るすべもない。けれども、たゆたふ海とともに生き、最後は堂々と死に様をさらすというのは、結構おしゃれなヤツだと妙に感心してしまった。動かなくなった甲羅は、玄海灘に向かい、毎日潮風と太陽をあびながら徐々に自然に還っていくのだ。

こんな思いに駆られるのは、最近、『海・呼吸・古代形象』や『胎児の世界 ─ 人類の生命記憶』をはじめとする、故・三木成夫さんの著作にはまっているせいかもしれない。三木さんは、おそらく養老孟司さんの兄弟子にあたる人で、吉本隆明氏に、「三木成夫の著作にであったのは、ひとつの事件であった」とまで言わしめるほどに、創造的でスケールの大きい仕事をなした人だ。三木氏は、生命誕生の故郷である海の記憶を宿している人間の呼吸のリズムと、波のリズムとは深いかかわりがあるという。そうすれば、海岸清掃において心にとめるべきは、漂着物そのものではなく、それらを運んでくる海の波の変わることのないリズムのほうかもしれない。と、ゴミを集め、海亀の臭いを嗅ぎながら、シーサイド哲学者をひとり(笑)気取ったことだった。