宗教を超えようとする初期仏教の魅力

昨日、スマナサーラ長老の九州での初の講演会「お釈迦様の教え〜惑わされない生き方〜」があった。姪・明日香の誘いである。姪はこの4月から福岡で暮らして始め、精神的な独立生活に向け、現在、態勢を整えつつある。このブログでも何度か書いたが、その姪の「いのちの恩人」が日本テーラワーダ仏教協会スマナサーラ長老である。
会場となった福岡市舞鶴の「あいれふ」には100名を超す人たちが集まった(僕のよく知る友人も2人来ていた)。長老の講演に直接接するのは、1月に姪が千葉県柏市において主催したイベントに続き、これで2回目である。長老については、数冊の著作と、養老孟司さんや玄侑宗久さんとの対談本を読んでいるので、その教えについて一応のことは知っているつもりだ。しかし、同じ言葉でありながら、いつも新鮮に感じる不思議な魅力と、これでいいんだという安心感は、いったいどこから来るのか、そのことを講演の途中にずっと考えていた。
その最大の理由は、話しぶりと内容が、とても論理的で、かつ具体的であることだ。「妄想や観念、概念に依拠して、外の思考に引っ張られることから、すべての悩みや迷いがやってくるのです」「お釈迦様の教えはとても論理的で客観的。仏教は宗教ではなく、こころの科学です」と、事例やジョークをもとに展開される説話は、抹香くささからはほど遠く、カラリとしてとても小気味いいのだ。「こころを強くするための方法を具体的に提示しているのは仏教だけです」とキッパリとした言い方も、宗教の次元を超えた、突き抜けるような明るさがある。
二つ目には、「他人のことはどうでもいい、まずは自分を観なさい」「人は、生きるという将棋をやっているようなもの」、といった本質的・根源的な“ハラのくくり方”に常に立ち戻る論法が、とてもポジティブで気持ちいい。モンスーン・アジアの日本人は、どうしても「悩み続ける」のが好きだけれど、長老の説法は「ニコッと笑う。それだけでうまくいく」「将来のことを焦ってもしかたがない」「この1分で何ができるかを考えれば能力は自然と身についてくる」と、シンプルな実践倫理となっていることも、人々の共感をつかんでいるのだろう。
いずれにしても、「ひとはこころによって生きている」というアタリマエのことに焦点をあて、こころのメカニズムをひたすらに説き、メカニズム応用・実践の方法(瞑想法)を普及し続ける様は、宗教的な囲い込みや排他性の対極にあって、とてもオープンである。
こうしたことを考えながら、久しぶりに日本テーラワーダ仏教協会ゴータミー精舎)のホームページを訪ねたら、「チベット問題について 歩み寄りと和解を願う声明」とする声明文に出会った。日付は、佛紀二五五一年(平成二十年)四月十四日と記されている。声明は「生きとし生けるものが幸せでありますように、という仏教徒の願いは、敵も味方も差別しません。政治的な問題で一時的に対立したとしても、仏教徒は怨みに怨みで返したり、過去にこだわって憎み続けたりはしないのです」と説き、日本政府に対し、「中国政府とダライラマ法王側の代表者を日本に招いて、和解のための対話の場をもうけるよう努力していただきたい」と述べている。日本国において、仏教界以外、こうした声明が発されたということをほとんど聞かないのはどうしたことか?! ぜひとも読んで欲しい。
何ものにも動じないこころの強さと清らかさ、そして静かな主張と、たおやかな生命哲学。こうした知の作法というか生の技法を身につけられるかどうかが、惑わされない生き方にむけたabcでりxyzだ。ひさしぶりに仏教関係の本を読みたくなった。


 *チベット問題についての声明文
  → http://gotami.txt-nifty.com/journal/2008/04/post_7472.html