“自我の一部”となったケータイ

日本のように、個人の垣根が低い国民性の中に、ケータイのようなものが入ってくると、元来“ツール”であるべきものが、“自我の一部”になってしまい、今のような現象が起こるというわけです。
─ 正高信男さん(京都大学霊長類研究所 教授)


もともと「個」というものを前提とせず、「世間」「おつき合い」を第一義として生きてきた日本人・日本社会のありようが、ケータイ・メールというハイテクツールと相性がよすぎたがために、『ケータイを持ったサル』『考えないヒト』(いずれも正高氏の著書)を生んだとする説は、鋭く、そして悲しさがこみ上げてくる。(らくかい堂)

(出所)http://premium.nikkeibp.co.jp/itm/int/15/