『感性の科学』

このほど、朝倉書店から『感性の科学 ─ 心理と技術の融合』が刊行された。私も編著者として名を連ねている。仕事での現在の私のテーマは、「感性」をキーワードに人間と技術の新しい関係(技術と感性の融合)や、大学における教育・研究のありかたを探求していくことである。こう書くとじつにもっともらしくエラそうに響くが、わからないことだらけであり、スタート地点に立ったばかりである。

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宣伝ということで、私の担当部分(「序章 ユーザーを基盤とした技術と感性の融合」)の“はじめ”の部分を紹介しておこう。


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■テクノロジーだけでは前へ進めない

 科学、技術、産業、生活、文化のいずれも人間の営みである以上、時代の制約を受けざるを得ない。その一方では、時代の制約を乗りこえようという取り組みが、時代との交差のなかで様々に模索され、新たな歴史の層を形成していく。このような視点で、われわれの周りを眺めてみると、今日、「感性の時代」といっていいような時代の思潮や兆候、そして様々なイベントに出くわすことができる。  例えば、2005年3月12日の日本経済新聞紙上に、「技術美JAPAN ─ 独自の美意識と先進技術、その融合が、世界を魅了する」というキャッチフレーズの全面広告が、富士山と日の丸の意匠とともに掲載された。そこに付されていたのが「テクノロジーだけでは、日本はもう前へ進めない」である。またその後には「どんなに凄い技術でも、それだけでは今の生活者は満足しない。ヒットしているもの、人々が欲しているものは、楽しさ、美しさ、面白さ」と続いていた。
 この広告が発するメッセージは一言で言えば、「技術美」という用語ともあいまって、「先端・最高の技術」が必ずしも人びとの幸福、市場の期待にそう時代ではなくなったということであった。周知のように、これまで日本政府はハイテク一本調子の科学技術立国戦略を推進してきた。広告のコピーは、その見直しの必要を示唆するとともに、繊細な美意識や日本的な感性を踏まえた新しい技術パラダイムの構築とその具体的展開の必要を、技術のユーザーである生活者の視点から提起したのであった。
 こうした主張は「技術の思想」そのものへの問いかけに他ならない。その切っ先は当然のことながら、技術の開発者でもありユーザーでもる大学の工学教育・工学研究のありかたはもちろんのこと、企業における技術開発・製品開発のありかたにも向けられている。
 目をアニメ、マンガ、ゲーム、アート、ポップミュージック、日本料理といったコンテンツやサービスの世界に転じてみよう。そこでは日本的感性を軸に、技術こそが成長をリードするという産業神話とは無縁の展開が国際的レベルでも活発化し、注目を集めている。海外からは「ジャパンクール」(日本的なかっこよさ)という眼差しが寄せられている。  今や海外の日本への関心は、「日本的生産方式」や「日本的経営」から、人々のこころや感受性に訴えかける「日本的感性」のほうにシフトしていると言っても過言ではない。「感性の時代」は、工業社会では考えられなかったプレイヤーの登場も巻き込みながら、多元的なムーブメントとして進行しているのである。