センチメンタルな朝

,

姪の明日香が今朝早く、千葉の両親のもとへと発って行った。3月からほぼ半年、我が家で起居しながら、こころの失調(うつ)に向き合い、途端の苦しみ、闇の不安から見事、自らの力で回復し、この世へのカムバックを果たしたのだ。人は誰しも世上の荷を背負いこんで生きていかざるを得ないが、今日の彼女の背中には、重力をおびた荷は一つもなく、不思議な力がきっしりと詰まっていて、その背を後押ししてくれているように感じられた。
千葉では薬の副作用を含め、症状悪化がどうしようもない状況にあった。そこで、自然のなかで転地療養すれば少しでも楽になるのではということで、芥屋に呼び寄せたというのがコトの発端であった。しかし、こころの病はとても奥が深く、環境を変え、自然にふれるだけで何とかなるというものではないという現実にただちに直面、カミさんと私とで固唾を呑みながら日々姪の症状を見守るしかなす術がない状態がしばらく続いた。そうした中で、医学関係や心理学、精神分析、体験記等、いろんな本を読みあさっていったものの、どれも隔靴掻痒、部分的にはうなずくことはあっても、全体として確信できる方法にはほど遠いシロモノでしかなかった(もちろん、切迫感をもった本との向き合いは、私にとっていい体験であったし、とても勉強になった)。
転機となったのは、ジュンク堂で求めた幾冊かの仏教関係の本のなかの、アルボムッレ・スマナサーラさんの著『自分を変える気づきの瞑想法』を彼女に奨めたことだった。それ以降、ブッダの教えが「こころの科学」であるとの啓発を受けた彼女は「これだ」との思いで、スマナサーラさんの他の本はもちろんのこと他の仏教関係の書も貪るように読んでいった。書物の世界との向き合い(恐らく彼女にとって生まれて初めての経験だったのではないか)には、傍から見ていても息苦しいほどの真剣さがあった。そして、瞑想を実践し、ブッダの教えに導かれながら、自分との出会い直しを一歩一歩すすめていったのだった。
こころの病は関係の病であり、執着・妄想の結果であることに気づいてからというもの、母親との関係の脱構築をはじめ、最近では自己のリセットボタンを押すのをエクササイズとして楽しんでいる風でもあった。そして、そのリセットボタンを押す力を引き出してくれたのが、同居していたポチの突然の死だったことも忘れられない。生々滅々。アリガタヤ、アリガタヤである。
それにしてもよく頑張ったと思う。明日香、君はエライ。また、その自己再建の軌跡は我々に多くのことを教えてくれた。感謝である。存在の原初の風景に回帰して、宇宙の根っこにつながる生きかたのコツをつかんだ彼女のこれからが楽しみだ。
駅までの送りの道行きでは、キラキラとした朝日が彼女の新しい旅立ちを祝福してくれた。「この世は美しい」。


 *アルボムッレ・スマナサーラ長老→ http://www.j-theravada.net/5-chourou.html
 *さよなら、ポチ→ http://d.hatena.ne.jp/rakukaidou/20060612