ありがとう産業

前日紹介した、仕事には「ありがとう」と言われる仕事とそうでない仕事の2つがある、という西村佳哲さんの言葉に「そうそう!」と頷きつつ、同じような主張をどこかで読んだことがあるぞと気になり、一日アレコレと記憶の糸をたぐり寄せながら考えた。で、ありました。なんと自分の原稿であった(笑)。2年前に、ある政府系金融機関の月報に「『顔のみえる』事業創出と中小企業」と題して寄稿した一文に「ありがとう産業」ということで書いていたのだ。しかも、ラーメンねたである。以下に、その原稿の冒頭部分と該当箇所を引用しておこう。モノ忘れ能力の向上に感心するともに、西村さんと同じようなことを考えたことがあることを知り。我ながら褒めてあげたい(笑)気分である。


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「顔のみえる」事業創出と中小企業

■「顔のみえる」産業おこし
 今日、IT化、グローバル化、成熟化、ローカル化 ・・・とマクロ環境は多元的・複層的な変化を行っているが、そうしたなかで「顔の見える」事業創出が日本企業とりわけ中小企業の重要な生き方として浮上してきたのではないだろうか。
 振り返ると、日本の「顔」にまつわる話はこれまで「顔が見えない日本」(外交、ODA)、「顔が見えない日本企業」(「ソニーが日本企業と知らなかった」)、「顔が見えない日本人」(主張せずひたすら微笑むばかり)・・・と、企業にとっても日本人にとってタブーもしくはトラウマ的な様相をおびていた。個を全面に押し出すことをよしとしない文化背景からか、個を捨て集団でキャッチアップをなしとげてきた「戦後」の慣性が尾を引いているためなのか。あるいは、「顔を見せない」ことで、米国主導の国際社会のなかで必死に伍して生きてこざるをえなかった歴史的現実があるのかもしれない。
 しかし、死が往々にして再生のドラマに反転するように、「顔の見えない」とされた日本の企業と地域が「顔のみえる」存在として独自の展開を模索しはじめたようだ。最近の新聞をみると、トレーサビリティで「顔の見える牛肉」づくり、地産地消で「顔の見える販売戦略」展開、スローフードで「顔の見える産地」おこし、身近な人間の支え合いがひろがる「顔の見える町づくり」といった具合に、「顔の見える」というビジョンやコンセプトの主張が、いたるところで目立つようになった。

<略>

■「ありがとう産業」
 「顔のみえる」関係ができてくると、「作り手」と顧客とのあいだに生きたことばが交わされるようになる。
 私が尊敬する経営者に博多ラーメン「一風堂」店主の河原成美さんがいる。業界のなかで知らない者はいないラーメン・ルネッサンスの仕掛け人でもある。「人生は自己表現、ラーメンは生きる力の源」というのが河原さんの口癖だ。(株)力の源カンパニーのもとで、博多のみならず、北は小樽から東京、名古屋、大阪まで全国に25店を展開している。
 「うまいラーメンをつくりたい。お客さまの笑顔を見るとさらにやる気がわいてくる」「たった一杯のラーメンが幸せな光景をつくっていく」ということばに彼のフード・ビジネスに賭ける夢と哲学が表現されている。一風堂の店舗では、河原イズムに共鳴する若者が大勢働き、どこも勇気、元気、活気があふれている。一杯の丼の中には店主の想いとスタッフの気が込められていると、河原さんは自信を隠さない。
 (株)力の源カンパニーは、今年から上海出店を皮切りに中国各地での事業展開をスタートした(年内には上海に計11店を展開する予定である。ゆくゆくは香港での株式公開を計画しているという)。
  一風堂のメニューには「ありがとうの気持ちを召し上がってください」と大きく書かれている。店において、作り手と食べ手の間で交わされのは、ラーメンや対価としてのお金というより、それを超える大切な「何か」である。私はそれはラーメン一杯にかける作り手の「思い」であり、至福にみちた顧客の「笑顔」であると思う。
 日本的なこだわりや美意識、気配りを背景とした「顔のみえる」「心に響く」ビジネスは、国境を超え中国でもアメリカでも新しい産業化のうねりをもたらすに違いない。そうした新しい産業のありようはこれまでのように「作り手」側に立って業種や商品を定義するのは難しい。それをあえて名付けるとしたら「ありがとう産業」(Thank-you Industry)とでもなろうか。