知性は極道であるべきだ!

今日は、九州大学ユーザーサイエンス機構において、公開シンポジウム「感性はデザインを生み、デザインは感性を育む。」を開催した。基調講演とパネル討論の二部構成である。基調講演は「デザイナーは喧嘩師であれ」「デザインの極道論」「デザインは言語道断!」「デザインという先手」といったラジカルな著作や問題提起でその名が知れ渡る川崎和男さんである。
川崎さんの講演は、大げさでなく、心の底からの感動を覚えるものであった。ユーザーサイエンス機構のある同僚は、「これまで受けた講演のなかでもっとも感動した」と言っていたが、私もそれほどに素晴らしいものであったと思う。講演を聞きながら、川崎さんの、人の心を深くうつ説法の秘密はどこにあるのだろうとずっと考えていた。
そして、その最大の要因は恐らく、デザインという仕事にかける川崎さんの切実さ、デザインを通した世界との“渡り合い”の真剣さにあると感じ取った。川崎さんは28歳の時に交通事故に遭われ、脊髄損傷による下半身不随、心臓の機能障害を抱えた1級の身体障害者である。プレゼンのなかでも、ご自身の背中に埋め込まれたボルトや心臓にはめ込まれたペースメーカーが紹介された。そして、それらのデザインのまずさに当事者として怒り、それがきっかけとなって人工心臓等の研究にデザインの観点から取り組み、デザイン医工学の開拓にあたっているという話をされた。
また、デザイン(造形)という行為の基盤として、言葉への透徹した視線が必要なことも強く訴えられた。たとえば、感性の「咸」と「心」は、「心のなかに様々なものがたまる」ことを表わす言葉であると指摘された後で、感覚→感性→感情と展開していくことで多様な世界が広がっていくという説明は、とてもわかりやすく説得的であった。「感性工学はあるのに、なぜ感情工学がないのか」との主張には、虚を突かれた感じであった。
さらに、積極的な能動要素として感性を捉え、感性の中から知性が立ち上がっていくとの簡潔な論理の展開は、「お見事!」という思いと「やられてしまった!」という感覚におそわれてしまった。
いずれにせよ、「デザイン」の世界において、造形と論理と言葉という3つの軸が深いレベルで織りあっていかないとダメだとの主張は、まさにプロフェッショナルでなくては出てこない言説であると思った。
般若心経における「観自在」は「自由にものを観る」ということです、そこから既成の概念に縛られない「先手としてのデザイン」という戦略が出てきます、というのにいたっては「カッコいいなぁ」と溜め息が出てしまった。
大学のありかたについても、「今までの大学は、ラング(抽象的言語体系)ばかりを扱ってきたが、これからはパロール(具体的発話行為)に取り組んでいくべきです」とじつに明快であった。「知性は極道であるべきだ!」という川崎和男節の残響が、しばらくアタマを占拠しそうだ。