宇井純を偲ぶ会

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昨日は、去る11月11日に亡くなった宇井純さんとゆかりのあった人間が集まり、偲ぶ会を行うというので、10時すぎに家を出て大牟田へ向かった。大牟田は、生まれ、そして18歳まで過ごした故郷である。平均すると毎年1回ずつくらいは訪れているけれど、今回はふだんと異なり、センチメンタルな訪問となった。
集合時間までには少し時間がああった。そこで、うどんでも食べるかということで、終点の一つ前・西鉄新栄町駅で降り、うどんが美味しいという白瀧屋を探すことにした。ほどなく白瀧屋を発見。メニューを見ると、うどん以外にも、チャンポン、焼きそば、チャーハン、カレーライスと何でもあり、昔ながらの食堂である。早速、具うどん(380円)を注文。出てきたうどんは、小振りで深めの丼にたっぷりめのスープ、それに天ぷらと蒲鉾のトッピング。味はカラダにしっかり覚え込んだ懐かしの味。とても旨かった。
白瀧屋の後は、集合時間まで小一時間あるので、タクシーを拾い、かつて住んでいた小浜町へ。親がその地から転居し、立ち寄ることもなくなって既に15年が経つが、この間の変化はやはり覆いがたい。家の前には海岸ゾーンに至る4車線道路ができ、すぐ先では大牟田と対岸の佐賀県鹿島をつなぐ有明海沿岸道路の工事が始まっていた。しかし、観光や工場立地の期待を集めて造成された埋め立て地は、テーマパークの廃虚や操業を停止した工場が風に吹かれているといった状態で、凋落した雰囲気が何ともうら寂しい。
そうしたかつての生活圏というかナワバリをしばしぶらついた後、偲ぶ会に先立つ見学会の集合場所である大牟田市役所前へ。そこに、ほぼ30年前、宇井純さんや中西準子さん(いずれも当時、東大都市工学科助手)の支援を得て、大牟田の公害問題に取り組んでおられた方々が三々五々集まってこられた。
市役所公害課の職員でありながら、反公害の運動をリードし、行政当局の不透明で手ぬるい対応や、企業の公害排出を厳しく問い詰めておられた武藤さん。そして彼のもとで同じく市職員の枠を超えた活動を繰り広げられていた小野さん、古賀さん、藤木さん、大原さんといった懐かしい顔ぶれである。いずれも、宇井さんの「自主講座」に学生として関わっていた頃、僕が大牟田出身ということもあって非常にお世話になり可愛がっていただいた方々である。さらには、当時、公害源企業であった三井東圧との交渉の前面に多って織られた早米浦漁業組合のかつての組合長・原田さんもお見えになった。85歳になられるというのに、かくしゃくとされていて実にカッコよかった。
こうした方々と、地元記者を入れた10数名で、かつて激しい対立の舞台となった汚染の現場を見て回った。大気汚染の三井東圧のコークス炉跡、水質汚染の同・大牟田川排水路、三井金属による土壌カドミ汚染の三池干拓地等である。各ポイントでは、カラダを張って活動をされていた武藤さんによる、事件の舞台裏を含めたじつにリアルな解説がなされた。お爺さんが右翼の大物であったこともあってか、公務員らしからぬ仁侠道精神を発揮され、コトに当たってこられたこともしばしばであったようだ。淡々とした口調で語られるお話は、すでに歴史の一コマとなっているが、こうした方々の真剣な取組みの積み重ねの上に今日があることに、寒風を受けながら感慨を新たにしたことだった。
見学会を終えた後、「だいふく」に参集し、式は第二部の偲ぶ会・懇親会に移っていった。会場には、準備をされた武藤さん、藤木さんのご尽力で、宇井さんの生前の写真パネルが用意され、それを窓辺に並べ、1分間の黙とうで偲ぶ会が始まった。かつて市職員・組合専従で現在市議をされている小野さんの発起人あいさつを皮切りに、武藤さんの「宇井さんと大牟田の公害」ということで話しがあり、そして僕のほうから「東大自主講座について」といことで思い出話をさせていただいた。それぞれに、宇井さんとの出会い、それを切っ掛けとした活動が広がっていったこと、さらには、公害問題への取組みを契機として、それぞれの仕事や人生行路が変っていった等など、ツワモノの話はつきなかった。
“センチメンタル”になった理由としては、一つにはこうした30年という星霜の重みがあるが、もう一つは、今は亡き親父との関わりがある。じつは、父は宇井さんと大牟田との関係が生まれる直前、1960年代末から70年代初頭にかけてであるが、大牟田市の公害行政の責任者でもあったことから、上記の方々はかつての直接の部下であったり、市役所の同僚であったりということで、親子二代にわたっておつきあい頂いたという次第である。そうした方々から、偲ぶ会の中で親父の人柄をしのばせる思い出話をいくつか伺うことができたのは、とても嬉しかった。
なにがしかの縁があって出逢った人間が集まり、来し方を振り返り、行く末を語り合う ─。同窓会を含め、その種の集まりには、天の邪鬼としてどちらかといえば避けてきた人間であるが、朝方の武藤さんへのお礼での電話では「ぜひまた集まりましょう」と言う自分がいた。それだけトシをとったということだろう(笑)。

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