承天寺 開山堂の掃除

今年は、姪の心の病が機縁で、読書ならびに参禅のかたちで、禅の世界に接することとなった。11月以降は周1回のペースで、博多は承天寺において坐禅を組むこととなった。僕にとって、2006年のもっとも重要な出来事の一つである。承天寺との縁は、既に授業の一貫として参禅している博多織デベロップメントカレッジの学生である村田・宮川両嬢のすすめによるものだ。
いつもの坐禅の仲間で寺の大掃除をやろうということになった。集まったのは6名。能の大太鼓奏者のご夫妻、女性経営者、大学生である。今日は坐禅抜きだ。集合時間の8時に少し遅れて行くと、皆さん、ご住職(至雲さん)からお茶をいただきながら四方山ばなしに興じておられた。お茶が一段落したところで、雑巾、バケツ、ほうき等をもって掃除開始。ご住職の指示で、境内の数ある建物のうち「開山堂」を綺麗にすることとなった。
開山堂は、承天寺を開いた円爾聖一国師)を筆頭に、謝国明、無順師範(仏鑑禅師)といった開山に関係した人たちが祀られている御堂であり、800年近い寺史をつないできた歴代禅師の位牌も祀られている。かつては女人禁制の空間であったそうだ。お堂へかんぬきを開けて入ると、薄暗いひんやりとした、張りつめた空気がそこにあった。戸を開けているとはいえ、照明がなく薄暗いお堂を、懐中伝統を片手に、埃をはき、堅くしぼった雑巾でふき清めていく。聖一国師をはじめ、祀られている御像は、いずれも数百年という星霜を経たものであるだけに、丁寧にあつかわないと壊れる危険性がある。御像本体は動かさず、周囲の仏具をいったん移動させ、辺りの掃除をしたあとで元の配置に戻していく。戻したあとは、御像を軸に配置を調整し、中心線をぴたりと合わせていく。
生まれたこのかた、まったく初めてのことであった。次ぎの用事があって、わずか1時間半ほどしかできなかったが、知性や感性のみでは説明できない、その場の霊性とでも言うしかないものにふれたような気になる(まわりくどいなぁ ─笑)貴重な経験となった。
後ほど、承天寺の歴史や、国際交易都市博多における役割などについて検索し、読み直しながら、武士権力者はもちろんのこと、禅僧、貿易商(南宋人)が交差しあった往時のことに感慨がおよんだ。あるいは、円爾謝国明、無順師範の御像の顔つきを重ねるなかで、博多の歴史がとてもリアルに感じられたと言うべきか。
こんなわけで、今年の仕事収めは例年になく神妙なものとなった。しかし、仕事場や自宅の机の周りは、例年どおり(笑)大掃除にはほど遠い状態である。

 *古代・中世の博多と承天寺http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kawazoe-shoji-hakata.htm
 *宋商・謝国明について → http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kawazoe-shoji-oronoshima.htm