「グーグル革命」の衝撃をどう考えるか

久しぶりにNHKスペシャルを見た。「”グーグル革命”の衝撃〜あなたの人生を”検索”が変える」である。「Web2.0」と呼ばれるインターネット世界の新展開において、いまどんなことが生起しているかを、Webビジネスの怪物となったグーグル(Google)を追いかけることで描き出そうとしたものだ。わずか50分の番組で、コンパクトにじつによくまとまっていた。とりわけ、グーグル社内部にテレビカメラが入り、同社の雰囲気やカルチャーの一端を伝えてくれたことは、NHKに感謝せねばなるまい。
「検索」の技術と情報蓄積が、検索ランキングを通じて、ビジネスに対する巨大な影響力を持ち始めていることが、花の種を扱う企業等の事例を通して描かれていた。そのビジネスで問われるのは、規模の大小ではなく、検索のキーワードを予めいかにおさえていくかという、Web情報戦略の巧拙である。また、これまでのようにメーカーが情報を発信し、そこに顧客が群がるという構図から、顧客(ユーザー)が検索という行為を通じて企業にアクセスしてゆき、その囲いに自ら進入していくという、企業とユーザーとの関係の劇的変化がある。一見、検索というユーザーの主体的行為が起点にあると見えながら、その向こうには、人間の心理(人は検索結果の上位数社しか注意・関心を寄せない)を踏まえた、巨大なシステムが動いている。これは、ユーザー参加型情報社会というべきか、ユーザー操作型情報社会というべきか。
操作といえば、「世界中のあらゆる情報のデータベースを構築する」と豪語する同社は、検索結果そのものをいかようにも情報操作できる位置を既に確保している。例えば、中国において「天安門の写真」を検索して出てくるのは、文字通り門の写真ばかりで、あの「事件」の写真は一切カットされるという事例が紹介されていた。しかし、これなどはジョージ・オーウェルの『1984年』が現実化したのかといったぐらいのことで、正直言ってあまり驚かなかった。
凄いと思ったのは、むしろ個人のライフスタイルの次元で、「記憶」や日常的な「行動」(いつ・どこで・どんな店にはいって・何を買ったか)についての詳細な履歴そのものも情報データベースとしてグーグルに委譲し、個人の行動としてトレースされる時代がやってきたという点だ。番組もふれていたように、グーグルが無線ネットワークサービスに本格参入することになれば、あっという間にそうしたことを可能にする情報空間が出現する。中国での「政治」を背景とした情報操作より、こちらのほうがずっと深い影響を及ぼすであろうことは間違いない。米国ではクレジットカードの番号までもグーグルに預け、管理を委ねることが可能となるサービスも始まっているという。
こうした事態を、どう考え、いかに対処すべきか。グーグルなしでは生きていけない「グーグル依存症」の人間が増え(こちとらも然り)、「脳化した都市」ならぬ「脳化した地球」を当たり前のこととして受け止める感性の出現を、人間学としていかに意味付けていけばいいのか。技術的にあまりにもよくできたシステムの出現は、人間にとって、必ずしもハッピーとはならないことを「倫理」=よりよく生きるための技法としておさえる視点が必要ではないか。あるいは、コミュニケーションがコミュニケーションを生むという自律的・自働的な「社会システム理論」を地でいく現実の展開をまえに、社会科学としてもきちんとした議論が用意されるべきだろう。
番組終了直後、「2チャンネル」をのぞいたら、すでに相当の書き込みがなされていた。そのなかに、次のような書き込みがあった。「博士号をもった若者が続々と入社を希望してアクセスしてくるというグーグルは“理系の楽園”であるけれど、その分、社会性や倫理性が希薄なまま、技術オンリーで暴走してしまうのではないか」。気になる指摘である。