“プロの6年”をめざす小学生たちに教えられる

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大学のリベラルアーツ講座「感性・こころ・倫理」でレクチャーをしていただいた丸野俊一先生が、「子ども主体の話し合い・学び合いを中心とした授業づくり」の公開授業ならびに公開研修会を開かれるというので、朝から筑紫野市の阿志岐小学校に出かけた。会場をかえて行われた午後の研修会・講演会を含め、子ども主体の新たな授業実践という、ふだん接することのない世界にどっぷりつかった一日であった。そして、実践者(教員)と研究者(大学人)とのコラボレーションということで丸野先生が取り組まれている授業革命の実際に触れ、「学び」や「教育」についての考え方を根本から揺さぶられるほどの衝撃と感銘をうけた。
最初の実験授業は6年2組において(担任 山本俊輔先生)、宮沢賢治の様々な作品を取り上げ、「作家と作品をかかわらせて読もう」ということで進められていった。学習始めのウォーミングアップとして、20名余りが一斉に2分間の速読を行ったあと、「独話」ということで、女子生徒が発表原稿をもとに自分の賢治像を15分の時間を使って発表した。まずそのしっかりした賢治像の捉まえかたに驚いた。いくつもの作品をつなぎながら、弱肉強食の世界と賢治が抱く理想社会を対比的に捉えたあとは、「まことの幸せ」とは何かといった賢治の核心ともいえるテーマに、テンポよく迫っていった。「これが小学生か!」というくらいの読みの深さがそこにあって、正直言ってたまげてしまった。この間、他の生徒たちは全員、しっかりとした字で、後の生徒どうしの対話を念頭に、きちんとした字で黙々とメモをとっている。で、先生はと言うと、独話者の発表内容を黙って整理しながら板書されている。
その後は、独話者の女子生徒をはさんで2名(予め指名されていた模様)の生徒が起立し、独話者の発表をもとに「言葉のキャッチボール」と称した意見交換を交互に行っていった。独話者の発表のどこが良かったかをきちんと述べ、さらに作品についての意見や、自分の賢治像についてテキパキとやりとりをしていく。この間も先生の出番はほとんどない。2人のキャッチボールが済むと、全員による自由発言のコーナーに場面が移っていった。これがまた自由発言にとどまらず、「私は○○と思うけど、××さんはどう思いますか」といった投げ掛けもありで、小気味いいことこのうえないのだ。大人顔負けの発話と対話が、わずか45分の授業の間に繰り広げられ、それがしだいに発展していくのが手に取るようにわかる。また、対話が行き詰まると、生徒が「先生、グループで議論したいんですが」と言いだし、2分、3分といった時間をもらって、4〜5人のグループ討議が始まる。子ども主体でクラス・アワーがどんどん進行し、教室が生き生きした学びの世界となっていく、この不思議さ。最近の「壊れる小学生」といった情報に左右され、小学校の教室や生徒たちに対してもっていた予断を見事にたたき壊されてしまった。大げさでなく、マジックか何かを観ているような感触にとらわれた。
午前中の公開授業を踏まえた午後の意見交換会・講演会のなかで、丸野先生は「授業観の捉え直し」ということを繰り返し述べられた。丸野先生の、「授業は教師が作る」から「授業は子どもと共に作る(共同構成)」へ、「暗黙の上下関係・役割固定」から「並び合いの関係・役割流動」へ、「内容(教材)理解が優先=正解志向」から「内容+学び方を学ぶ=誤りからも学ぶ」へいう方向展開についての理念的かつ情熱的な主張と、それを現場の先生が具体的実践としてどう受けとめ、悩み、取り組みんでいったのかという報告の往来は、とてもスリリングであった。阿志岐小学校における、「学び」についての新たな理論と新たな実践の協働は、学校現場のみならず、社会のあらゆる領域に示唆を与えるも質をもっていると直感した。
先の6年2組の教室は授業風景のみならず、それ全体が「学びの宇宙」といっていいような、いのちの躍動感や輝きに満ちていた。例えば、教室の後ろに貼ってあった、生徒たちの描いた日常的な用品(くつ、文房具、、)の絵は、とても描写力が豊かで、深い観察眼を身につけていることが即座にわかった。そして、とどめは、黒板の上の模造紙にあった、たぶんこのクラスの共同スローガンとして書かれた言葉だ。「阿志岐小の歴史に残るプロの6年になろう」。そうだ、このクラスの子どもたちは「教えのプロ(先生)」との協働プロセスのもとで、「学びのプロ」をめざし、阿志岐小に新たな「学びの伝統」を残そうとしているのだ! 公開授業に至るまでに、決して平坦ではない「学び」の実践があったであろうことを思うと、深い感動を覚えずにおけなかった。