自分の感覚を大事にすることから始まる

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一週間前のできごとの日記だ(笑)。ついつい書きそびれてしまったけれど、どうしても書かずにはいられない気分なので、ノートを開いて書き留めておこう 。
3日(土)・4日(日)と、リビングワールド(Living World Inc.)というデザインオフィスを主宰される一方で、「働き方研究家」として各地でワークショップを開かれている西村佳哲さんに講師として来ていただいた。そして、「西村ワールド」としかいいようのない、とても心地よい時間をすごすことができた。土曜は「「自分の仕事をつくる」というテーマで講義形式でお話をうかがい、日曜日は10時から18時までの長時間ワークショップである。ワークショップは、田村馨さんと一緒に、若い人たちのあいだにオジサンが潜入するかたちで参加した。
今も、西村さんの、ご自身の物語を交えながら進められる、静かな語り口が耳に残っている。ある学生が最後のところで、「2日間ずーっと、言葉では表現できない一種の違和感を感じていましたが、それが西村さんの独特の話しぶりにあることがわかりました」と告白していたが、まさにその通りだと思った。通常の講義やプレゼンテーション、ワークショップにありがちなお仕着せがましさや、参加者を事前のプランにそって導いていくというそぶりがまったくなくて、「一緒に暖まりましょう」という感じなのだ。そして、西村さんのお話に通奏低音として響いていたのは、「自分を掘り下げ、自分であり続けようよ」という呼びかけであった。「自分に向き合う」という、ややもすれば難しくなりがちな存在論のテーマをわかりやすいメタファー(比喩)で、仕事の哲学や、デザインのありかたに即して展開されるので、いつの間にか西村さんの悠々としたタオ的なリズムに引き込まれていく感じであった。
なかでも、もっとも深く頷いたのは、自分の「実感」「感覚」「違和感」を大事にして、それと一緒に居ることが、仕事であれなんであれ、人としてのあり方・存在として基底をなすという指摘であった。違和感は嫌だなぁと思いながら“ためこむ”のでなく大事に“置いておく”ことにしましょう ─。違和感に自分でなきゃできない仕事のヒントがあるかも ─。聞かれても言葉にはしずらいけど、曖昧なりにアタマのなかに自分の感覚としてしっかり存在するものを手放すことなく、そこから思考や価値観を立上げていく ─ 。自分の外にある基準や対象に自分を賢く適応させようとすると、肝心の自分がなくなりますよ。素敵な仕事は、その人がその人自身で、他人事でなく自分事として営まれているものではないでしょうか、、、。
知識や技術、戦略から入るのではなく、まずは自分の感覚を起点に組み立てる。西村さんはレクチャーのなかで、「仕事の三角形」とでも言えるものを書いて下さった。一番底辺から、「在り方・存在(感覚・実感)」「考え方・価値観」「技術・知識」と積み上げるというものだ。そして、これからは、教えようのない一人一人の「感覚・実感」がに基づく納得解の探求が大切になってくるとのではと指摘される。この「仕事の三角形」は、心のもやもやを晴らしてくれるとともに、横展開によって世界をさらに広げることができるように思う。「感性」「インターフェース」「技術」という差角形をかけば技術の新しい在り方につなげることができるだろうし、「心のもと(般若心経の空の世界)」「心のはたらき(アイデンティティ)」「知性」とすれば、心のもととなる足下を照顧し、耕すことの意味もつかみやすくなる。さらには、「無人称」「一人称」「二人称・三人称」からなる三角形を描けばどんな景色が広がるだろうか。
人間がエコロジカルな存在である以上、外部や不確実性に対する適応を求められるのはいたしかたないけれど、それも「基底に向かう思考」があってこそだ。そのこととも関連して、デザインの前に、自分の感覚でまずは自分を含め回りの世界を観て察する(=観察)するという、インプットの解像度を上げないと、いいデザインはできない、という指摘も深く納得した。
いずれにせよ、二日間お付き合いさせていただくなかで、デザイン、働きかた、ワークショップという西村さんの活動領域のひろがりが、一つの筋としてよく理解できたように思う。西村さんのワークショップ理解は、「教える」ことでは伝えられないものをつかむ手法がワークショップ、というものだ。ファクトリー(工場)は、つくるものが決まっているので教えることができるけれど、ワークショップは何をつくるかを模索し、正解がない状態でそれぞれが気づき持ち帰るものだ。とても明快である。
ワークショップという方法論が、閉塞感に陥っている教育と学びの現場を変える!と確信をもち、しっかり勉強せねばと思っていた矢先だっただけに、西村さんと出会えた意味は、僕にとってとても大きかった。感謝である。