「承天寺の怒り(7)」壮観なり「夏祈祷」


夏が近づくとともに福岡ではこれから「博多祇園山笠」(7月1−15日)に向けた関連行事が様々に進行していく。その皮切りが山笠の安全と成功を祈願する「夏祈祷(なつきとう)」である。と書いたが、エラそうなことは言えない。じつは上方より2日に夏祈祷があるから参加されませんかとのお誘いを受け、初めて知ったという次第だ。もちろん、「これもご縁」とありがたく参加させていただいた。
夏の着物を着て(帯はもちろん博多織)承天寺に到着すると、参禅仲間である白坂保行さん(大鼓方高安流)が、これから奉賛される能謡の説明をされていた。3年まえに初演された創作能「博多山笠」の一部の一部だそうで、承天寺では初めての上演とのこと。謡は、白坂さんとシテ観世流の鷹尾維教さんと、同・鷹尾章弘さんの三人で演じられた。1241年、承天寺の開祖、聖一国師が博多の町人が担ぐ施餓鬼(せがき)棚に乗り、法の水をまきながら疫病退散を願ったたところ、疫病が鎮まったという故事(山笠の起源)が、能の謡として本堂に朗々と響き渡った。
その後、神保至雲住職を筆頭とする一派の僧侶20人が、正装の法被を身に着ける博多祇園山笠振興会の役員や舁(か)き山笠七流の総務ら約20人が正座するなか、大般若経を読経しながら、祭りの安全と成功を祈願した。「摩訶般若波羅蜜多心経・・・ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか はんにゃしん ぎょう」と堂内に大音声が轟き迫力満点であった。また、600巻はあるという大般若経のセットを僧侶がそれぞれに箱から取り出し、お経の巻物をパタパタと玉すだれのように開いていく(その合間に上方がエイやっと喝を入れる)様は、パフォーマンスとしてもなかなかの見物であった。パタパタめくりで大般若経全巻を唱えたと見なすというから、仏の世界の融通無碍ぶりには改めて感心してしまう。
祈祷が終わるり、寺の大広間で精進料理を頂戴した。女人禁制の伝統に従い、お酌からお茶出しまで給仕はすべて流れの若衆(と言っても平均年齢はかなり高め)が執り行う。
山笠とは何の接点もなかった人間が、承天寺での坐禅をきっかけとして、山笠のもっともディープな世界を覗かせていただくことになるとは。知らないですまそうと思えば、一生知らないでもすませたことではある。これもご縁、じつに不思議な感覚を味わせていただいた。それだけに、東宝住宅の皆さんにも承天寺を拠点に伝統の様式をきちんと守り続ける博多の人間の誇りと心意気に、ともに接して欲してもらえればと思ったことであった。


謡曲「博多山笠」
また聖一國師と尊ばれしは
南宋に渡り禅を修め 普く教えを広め給いし
承天寺のご開祖なり
ある時疫病流行し 世上の苦しみ果てしなければ
この有様を悲しみて 施餓鬼の棚を担がせて
自らはその上に乗り給い 博多の町を巡りなば
さながら末世の如くなれば これを祓い清めんと
げに有り難き 大般若の経文 高らかに唱えつつ
甘露なりける法の水 施餓鬼の上より撒き給えば
清らかに光射し 疫病悉く生滅す
これより山笠の始まりたると申すなり
町を挙げての御祭礼 町を挙げての御祭礼
我が為なれと建てし山笠(やま) 天まで届く旗印
ご神体なる人形は この時ばかりと風を切り
威風堂々の櫛田入り 益荒九州男(ますらくすお)の心意気
暁破る 大太鼓
一番山
博多町 幾千代までの栄ゆらん
幾千代までも栄ゆらん
建てし山々辻を廻り 舁き手の男子 風となる
打つや勢い水 邊を醒まし 炎となりし掛け声は
おいさおいさと大地に満ちて
山笠も舁き手も町衆も皆ここにてぞ神となる
あら嬉しの人心 我も威を増し
遍く大地 広大無辺の宇宙(そら)までも
この聖水を撒きて祈らん
永久に盛ゆけ 永久に栄ゆく
博多の町こそめでたけれ
(初演 2004年5月24日 住吉神社能楽堂