榊原英資氏の講演を聞いて

昨日、九州経済フォーラム主催の会合で、大蔵省時代に「ミスター円」で勇名を馳せられた榊原英資氏の話を聞いた。切れ味スルドイやんちゃな天童といった雰囲気はテレビで拝見する様とまったく同じである。榊原氏の講演から3つの重要なメッセージを受けた。
一つは、長いスパンで世界史をみると、19世紀までは綿々とアジアの時代であったのが、この150年ほどの期間については欧米の時代に一時シフトしていただけのことで、21世紀は中国・インドの経済成長と人口増で再びアジアの時代になるという点。長期視点の重要性を改めて感じた。
また、最近、早稲田大学でインド研究のセンターを開設された氏らしく、インドの話も興味深かった。現在、世界最古の大学の一つであるナーランダ大学(ビハール州)の復興計画についてインド側から協力要請が来ているという。ウィキペディアによると、ブッダが訪れ、最多で1万人の生徒と1500人の教員がいたという大学だ。ブッダつながりで、日本としてぜひとも貢献すべきプロジェクトであろう。また、それとも関連して、ややもすれば遠い国のインドであるが、じつは日本との間で共有できるものがしっかりある。それは「無常観」というのだ。しかし、インドはドライで、日本はウェットな無常観。なるほどと思った。日本とインド、ヨガと禅をむすぶ一本の糸としての無常観。大いに想像力を刺激する指摘である。
二つめは、新しい知識像と教育のあり方について。氏は、イノベーションの本質は知識の組み替えにあるので、その土台となる知識については、いろんな知識をしっかり時間をかけて教え込まないといけないということで、「ゆとり教育」を強烈に批判された。またその延長で、最近はやりのインド式九九や、インドの人びとが日々行うヒンズー教典の暗誦の効用も考える必要があるという。ゆとり教育(絶対的な授業時間の減少)のなかで、国史としての日本史を必修としない、世界でもまれにみる国となってしまい、グローバル社会に堪えうる見識を育てられていないとも。さらには、「勉強してもいいことない」という形で、子どもたちの意欲が急速に低下し、社会におけるエリート像そのものの崩壊がとても心配と。
このあたり、僕自身はゆとり教育は是か非かと単純な二元論でいかないと考える。求められる能力の中味も時代によって変わる。さらに人によって能力のありようは多様で、一人として同じ人間はいない。また、真の学びと教育は一人一人について、その機が熟し、〓(そつ=雛がかえろうとするとき内からつつくこと)と啄(たく=母鳥が外からつつくこと)の呼吸がぴったりあわないと成立しないと思うからだ。よき師に出会えるかどうかが、教育システム以上に重要であることが少なくない。このあたり、榊原氏の「わかりやすさ」には慎重でありたいと思う。ただ、新しい知識像・人間像に向けて、もう一度「学問のすすめ」を書かないといけないという主張には大賛成だ。
三つめ。「1500年間他国の侵略をうけず、600年にわたり国内の戦争が起きていない世界でも特別な国」である日本は、平和な環境のもとで独自の感性と美意識を育ててきた国として、アジアのなかで貢献をして行く必要があるし、その可能性があると氏は最後に指摘された。21世紀は、アジアの共通文化である「多神教」の時代となり、それを踏まえ共存の社会を探究していく時代である。そして、新しい時代において日本的感性や日本的美意識の出番が来るというのが榊原氏の主張である。
細部で違和感を感じることはあっても、独自の人間観や大局観、世界観に裏付けられた話は、聞く側に心地よい揺さぶりを与えてくれる。榊原氏が希有の語り部である、と思った。