この時代と社会を動かしている言語感覚

作家の高村薫さんが、西日本新聞の「社会時評」で「この時代と社会を動かしている言語感覚」の問題について書いている記事に、母の家でたまたま出会った(7月12日 朝刊)。冒頭部分の文章を書き出すと、


「メディアと通信機器の発達がつくりだすのは、言葉の過剰と過小の両方である。一人の人間が受け取るには多すぎる情報が日々発信され、少しでも多く受け取るために個々の情報量が少なくなるという循環は、いまや私たちの脳をそのように順応させ、言葉の使い方や受け取り方を変えつつある。そしてそのことが、さらに言葉の機能や役割も変えてゆく時代に私たちは生きている。」


高村さんは、こうした言葉をめぐる環境変化のなかで、政治家のあいつぐ失言や元公安庁長官の妄言を、個人の資質や発言の中身以前の問題として捉える。熟慮も信念もなく、情緒に訴える形でワンフレーズでことを済まそうとするまでに堕ちてしまった、この社会全体(政治だけでない)の言葉をめぐる環境の劣化。「かくして、いまや政治は言葉の意味にではなく、言葉がいかに国民の感情を刺激するかにある」「言葉はもはや意味の表明ではなく、聞き流すことを前提とした冗長なBGMである」。

数日前の新聞のなかからこの記事をさがしあてた時に、ウーンとうならざるをえなかった。そうか、先日、博多駅で遭遇した構内アナウンスにおける「聴く・語る」のリテラシー欠如(*)も、同一線上の現象かもしれない! 失言の是非をこえたところで同時代的に、誰しも逃げようもないところで進行する、ヌエのような言語エコロジーの変化にどう向き合っていったらいいのだろうか ─。最近、思うところあってミクシーの世界をあちこち歩き回るなかでも、つぶやきに似た、ちょっと言ってみただけといった、か細く、「やさしい」言葉の森が自己増殖的に増えていることを改めて知った。もちろん、よそから見れば、このブログだって同じ手合いであろうことは十分承知。いずれにせよ、ある種、閉鎖的な、あるいは半径1メートルのこじんまりとした言語空間が、想像以上のテンポで膨張している。
 *博多駅の一件→ http://d.hatena.ne.jp/rakukaidou/20070706/p2

人は輪郭のはっきりした言葉を生きるのか、それとも空気のような言語空間を含めた、言葉の底の無意識の闇を生きるのか ─。web がつくりだした新しい空間に「未来」への希望を見いだし、そこをポジティブに生きていこうと呼びかける、『フューチャリスト宣言』の茂木さん・梅田さんだったらどう答えられるだろうか。一度ぜひ尋ねてみたい気がする。

なぜか、20年ほど前に観た、フィリップ・カウフマン監督の「存在の耐えられない軽さ」という映画のことを思い出した。冷戦下のチェコスロヴァキアを舞台とした恋愛映画である(最後は衝撃的な結末となる)。といっても、その正確な筋はよく覚えていない。でも、なぜかこの映画のことを思い出した。無意識の闇が信号を発しているのだろうか。これは無意識の畠を耕起するいい機会かもしれない。台風の模様をみてビデオショップに一走りすることにしよう。