清水眞砂子さんの「無言」へのこだわり

味わいながら聴く深い語りには、そうめったに出会えない。でもいったん出会うと、人はしばらくその余韻に酔いしれることができる。先日(10月29日)の子ども学連続講座での清水眞砂子さんの講演は、さまにそんな語りであった。
児童文学者として『子どもの本の現在』をはじめ数々の著作をなされているし、『ゲド戦記』をはじめ翻訳家としてのお仕事もされている。また、都内の短大の先生として幼児教育を現場でささえる人材の育成にもあたっておれる。
「一番大事なことは言わなくてもいい」「存在の核になることは触れてはいけない」という清水さんの言葉がいまも余韻として響いている。「無言」の思想とでも言ったらいいだろうか。この「無言」は、先日、茂木ケンが語った仏教の中心教理である「無記」とも重なりあっているのではないかと思っている(*)。
 *http://d.hatena.ne.jp/rakukaidou/20071020/p1
「無言」に関連して、清水さんは最近の若者のなんでも語ってしまう「告白ごっこ」というか、「表現」に対する無邪気な信頼がとても気になると言われた。関係性意識の強まりでなく、自我が肥大していることを暗示しているからだ。告白や表現についてもっとナイーブになりましょうよとういう主張には、そうかそうかと静かにうなってしまった。
もうひとつ、サリドマイド禍の被害者女性の発言を紹介しながら、「無言」を大切にということとあわせ、言葉やメッセージを発することが重要だとも語られた。「有言」の思想である。サリドマイド禍被害者という圧倒的少数者の語りは、世間の大人どものわかった風の説明をはねかえし、自らの存在を見出し・表明していく意味がある、と。圧倒的少数者によせる清水さんの視線は、啓蒙され教育される「敗者としての子ども」によせる視線と同じだ。大人たちの観念的な説明ではなく、日常のつましい存在を慈しみながら、ぼく(ぼくら)には世界はこう見えるよ、世界はこんなに素敵なんだという「物語」を紡ぎだし、それを大切にしていこうという生き方の技法。講義のタイトル「幸福に驚く力」の意味がストンとわかってうれしかった。
では、「無言」の思想と「有言」の思想をどう折り合いをつけていったらいいのだろか。実は、その問いを解答を求めないかたちで講座終了後に清水さんに発してみた(次回講座での質問の楽しみとして)。いまもずっとそのことを考え続けている。そして、「言葉の手前の自分だけのいとおしい世界」に対する目線と、「向こう側からやってくる言葉に対する対話・対峙」の構えの2つは、真反対なようでいて、言葉をめぐる同じ問題にふれているんだという確信のようなものを感じている。
講座の翌日、清水さんが「一番大事なことは言わなくてもいい」ということにふれた児童文学として紹介された『クローディアの秘密』(カニグズバーグ作)を書店で求め読んだ。そこにあったのは、次のような一節である。


何かかが、まさにその瞬間に起こりました。クローディアとジェニーはふたりともそれをわたしに説明しようとしたのですが、うまくできませんでした。わたしは、何が起こったが知っています。ふたりにはいいませんでしたけれどね。なんでもかんでもことばや文章にあらわそうとするのは、あまりに近代的すぎます。・・・・
そのとき起こったこと、それはふたりがチームになった、ふたりの家族になった、ということです。家出のまえにもふたりがチームのような行動をしたことはいくどかありましたが、それは、チームを≪感じる≫というのとはちがっていました。チームになったというのは、いい争いがやんだという意味ではありません。そうではなくて、いい争いも計画の一部となり、議論ではなく話し合いになったということです。外からみれば、いい争いはまえとちっともかわっていないと映るかもしれません。チームー意識は、目に見えないところで起こるのですから。それは≪思いやり≫といってもいいかもしれません。≪愛情≫とさえ読んでよかもしれません。
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クローディアに必要な冒険は、秘密よ。秘密は安全だし、人をちがったものにするには大いに役立つのですよ。人の内側で力をもつわけね。