ストレス社会における「脳疲労」の問題を考えます

前にも案内しましたが(*)、「感性」を軸に、一人一人が多様性をもって生きるためのワザや構えを、領域や専門にしばられない生きた学問=リベラルアーツ(自由技芸)として探っていきたいということで、12月10日から「リベラルアーツ講座」を開いています。
残すところ、あと5回の講義を予定しています(*)。いずれの回も、素晴らしいゲストをお迎えし、お話を伺って参ります。とりあえず、次回の案内をお知らせいたします。
 (*)http://d2.hatena.ne.jp/rakukaidou/20071211

8日(火)の講義は、医師であり九州大学名誉教授である藤野武彦先生をゲストにお迎えします。藤野先生は、ストレスの多い現代人の生活環境とその結果生じる異常な健康状態を「脳疲労」という独自の概念で定義されるとともに、それを治療する原理を「BOOCS理論」として提唱されています。その基本は、生活にできる限り抑制を加えず(従って生活習慣も矯正しない)、心地よさを追求することで、脳疲労を解消し、健康を促進していくといものです。BOOCS理論は、鬱(うつ)や引きこもり、肥満の予防法・治療法として最近、いろんな方面から注目を集めています。
情報社会・管理社会のなかで、現代人が直面する多様なストレスとどう向きあっていくか ─ 。そこに、生命の営みを統合していく「感性」という“もうひとつの知”の役割があると考えます。「脳疲労」は、学生であれ社会人であれ子どもたちであれ、現代に生きる人間が共通してかかえている問題だと思います。時間と興味のある方は、お誘いあわせの上、ご参加下さい。事前の申込などは一切不要です。もちろん無料です。なお、講座修了後、藤野先生を囲み、希望者で懇親会を開きます。


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リベラルアーツ講座 Vol.4
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日時:1/8(火) 17:30〜20:00
テーマ:ストレス社会の“らくらく”健康科学
ゲスト:藤野武彦氏/医師・九州大学名誉教授
進 行:第一部 レクチャー 第二部 対談(坂口光一×藤野武彦)
会 場:九州大学西新プラザ大会議室(地下鉄「西新」より徒歩6分)
     TEL 831-8104
     地図は→ http://www.kyushu-u.ac.jp/university/institution-use/nishijin/infomap.htm
問合せ:642-7249(坂口・藤原まで)


【藤野武彦先生のプロフィール】
1964年に九州大学医学部卒業後、インターンを経て九州大学大学院医学部第一内科大学院に入学。1967年に同大学循環器研究室に配属以来、内科、特に心臓・血管系の病気(狭心症心筋梗塞・高血圧など)の研究に従事する。1978年より臨床医学と併行して、病人ではない「ふつうの人」の健康をいかに増進させるかという「健康科学」の研究に従事している。特に「運動」「食」「メンタル」の各分野の深い関連性と統合化に焦点を合わせ、BOOCS理論を創出。肥満や過食症治療に新機軸を開く。その後、同大学保健管理センター、次いで健康科学センター講師・助教授・教授を務め、2002年 九州大学名誉教授。現在、医療法人社団ブックス理事長、レオロジー機能食品研究所所長の他に、NPO子どものいのちを守る会副代表を務めている。近著に『我慢するのはおやめなさい―「脳疲労」時代の健康革命』(毎日新聞社
 *詳しくは→http://www.boocs.org  http://www.kdminc-mamorukai.com/

ゴミ拾い初めで発見したもの

太宰府にでかける前、今年初めての海岸清掃(ゴミ拾い)を行った。芥屋の高山夫妻、岐志の久保さん、前原の有田さん、そして私の5名が参加した。
やることは、いつもどおり一時間ほど淡々と海岸のゴミを拾うのみである。時おり頭を上げ、可也山の斜め上方にある朝日をながめながら、今年もゴミを拾うことができる幸せ(笑)を感じたことだった。「朝のゴミ拾いは、ひとを哲学者にするかもしれない!」なんて内心つぶやきながら ─ 。

年明け早々の心がけが稔ったのか、きょうは2つの出会いがあった。最初は、なんとマレーシアから流れてきた、ミネラルウォーターのペットボトル。韓国のものに加え、このところ顕著に中国のものが増えてきているが、マレーシアからの漂着ボトルは初めてお目にかかった。ゴミという認識より、「よくぞマレーシアから」という思いが先に出た。以前はヤシの実の漂着によって、南の国とのつながりを感じ取っていたのでろうけれど、それがペットボトルという媒体に変わっただけかもしれない。

もう一つは海亀。ゴミを拾い進めていると、突然、異臭がぷーんと伝わってきた。あたりを見回すが何もない。もう一度見渡すと、臭いの起点に海亀の亡きがらを発見した(海亀の死体に出会うのは、これで二度目である)。さきほどは岩かと勘違いしたのだった。死に場所を求めて海岸に上がってきたのか、それとも息が絶えて波によって海岸に打ち寄せられたのか、知るすべもない。けれども、たゆたふ海とともに生き、最後は堂々と死に様をさらすというのは、結構おしゃれなヤツだと妙に感心してしまった。動かなくなった甲羅は、玄海灘に向かい、毎日潮風と太陽をあびながら徐々に自然に還っていくのだ。

こんな思いに駆られるのは、最近、『海・呼吸・古代形象』や『胎児の世界 ─ 人類の生命記憶』をはじめとする、故・三木成夫さんの著作にはまっているせいかもしれない。三木さんは、おそらく養老孟司さんの兄弟子にあたる人で、吉本隆明氏に、「三木成夫の著作にであったのは、ひとつの事件であった」とまで言わしめるほどに、創造的でスケールの大きい仕事をなした人だ。三木氏は、生命誕生の故郷である海の記憶を宿している人間の呼吸のリズムと、波のリズムとは深いかかわりがあるという。そうすれば、海岸清掃において心にとめるべきは、漂着物そのものではなく、それらを運んでくる海の波の変わることのないリズムのほうかもしれない。と、ゴミを集め、海亀の臭いを嗅ぎながら、シーサイド哲学者をひとり(笑)気取ったことだった。

プロの教師・山本俊輔先生にお会いする

太宰府に出かけ、山本俊輔先生とお会いした。1年近く前に、「“プロの6年”をめざす小学生たちに教えられる」ということで紹介した、阿志岐小学校6年2組(当時)の担任の先生である。僕にとって、6年2組との出会いは、子どもや人間の学びについて考え直すきっかけとなった、大きなできごとであった。また、ブログで6年2組のことを紹介することから始まった縁と交流の広がりは、僕の大きな自慢である。そのいきさつと詳細については、昨年の1月27日の書き込みと、「コメント」欄での山本先生、生徒であった日下部好芽さんとのやりとりをみていただきたい。
http://d.hatena.ne.jp/rakukaidou/20070127/p1#c

じつは、山本先生と面と向かってお話するのは今回が初めてだ。にもかかわらず、是非とも「6年2組」の実践を「学びの感性と生きる力」という視点から学生たちにお話いただきたいということで、1月18日(金)のリベラルアーツ講座Vol.7のゲスト講師を既にお願いし、快諾をいただいていた。この押しの強さというか自信には、われながら呆れるほどだ(笑)。それはさておき、今日は山本先生とともに太宰府天満宮に参詣し、九州国立博物館で開催していた「京都五山 禅の文化」展を鑑賞したあと、2時間あまりいろんなお話をすることができた。
山本先生は、阿志岐小学校の卒業アルバムをもってこられていた。そこには、なんと、僕がこのブログで書いた「“プロの6年”をめざす小学生たちに教えられる」という文章と、子どもたちへ贈ることばが山本先生とことばと同じページに載っていた。それも本来は担任の先生の頁なのに、その3分の2以上が「1.27公開授業を参観された芥屋らくかい堂こと坂口光一」ということで掲載していただいているのだ。それを見せていただいた時は正直言って、感激と光栄のあまり、その頁にまともに目をやることができなかった。公開授業を参観して深い感銘を受け、そのことを書いたブログがある子によって検索で偶然発見され、山本先生につながって、あげくのはては贈ることばを卒業アルバムにまで入れていただく、というまさに奇跡としかいいようがない素敵な経験をさせていただいた。いや過去形ではなくて、好芽(このめ)さんとのインターネット文通はいまも続いているのだ。
先生とは、1月18日の講座の事前相談ということでお時間をいただいたが、6年2組のこと、人間観、教育観、教師像、人生観・・・といろんな話題をお互い出し合いながら、とても楽しい時間を過ごさせていただいた。
その誠実で実直なお人柄は一目瞭然。それだけに、「6年2組は、これまでの教師生活のなかで最高の仕事となりました」「6年2組では教師としてやれることは全てやりました」と、嬉しそうにきっぱりとおっしゃる様に「プロの先生のここにあり!」と深い感銘をうけた。子どもから送られてきた年賀状も2枚見せていただいた。そこには、6年2組での成功体験と、中学での躍動感のない日々とのギャップが悩みとして綴られていた。
6年2組は、5年生の時に生徒と担任との関係がこじれたこともあって、山本先生が担当されることになったとのこと。そうしたクラスを立て直すにあたっての先生の信念、ポリシーは「生徒とはつかずはなれず」「生徒をけっして裏切らない」「授業づくりは学級づくり」「教師を含め信頼関係で結ばれた学級がつくれないと学び合いは生まれない」「一回でも同じ授業はやらない」「ライブな授業をこころがける」・・・と明快で力強い。その言葉のなかの授業を事業に、学級を組織に、教師を経営者におきかえれば、学校現場のみならず社会のあらゆる現場で共有すべき普遍的な示唆がそこにはある。
そして、学級づくりに効果的だったのは、「朝10分間の国語教科書の全員・毎日音読」「学級日誌」の2つだったそうだ。音読は、教科書のなかの好きなくだりを読む。そして、山本先生が「お母さんの具合どう?」と一言声をかける。このたった10分の積み重ねが、子どもたちの自信と、相互の信頼関係づくりに貢献したという。また、班日誌は、子どもたちどうしのコミュニケーションや相互触発の土壌をづくり、他者に耳を傾けることで自分を見つめ直すというクラスの文化醸成に役立ったのだそうだ。子どもたちが他の子どものことをあまり知らない、という現状をかえるのはほんのちょっとした工夫だという。
そして何より、「子どもたちと多様なものの考え方を共有していくなかで、教師も学び、どんどん変わっていくことができる」「子どもたちとの出会いは縁です。その子どもたちと一緒に一回限りの仕事をしていくだけです」と、学びの現場の魅力を語られる言葉に僕の心は共振した。生徒と先生が「信」の糸でつながり、一緒に仕事をしていく醍醐味を語れる先生がどれだけいるだろうか。もちろん、自戒をこめての問いだ。
山本先生の周りには、学校に押し寄せている「管理」とは遠い世界が、まだ息づいている。教育における「原初的な光景」がそこにあるといったらいいだろうか。かけがえのない原体験をつかんだ6年2組の卒業生たちが、これからどう成長し、社会とどんな関わり合いを生み出していくだろうか、大いに楽しみだ。可能なら(もちろん、ぼけずに生きていればの話だが )、第2の奇跡で、10年後か20年後のクラス会にひっそりと参加させていただくことができればなぁ、と思いながら太宰府を後にした。

見えないものをつかめ ─ イチロー賛

昨夜のことだ。たまたまひねったチャンネルの画面にイチローがいた。NHKプロフェッショナル「仕事の流儀」が始まっていたのだ。そして気がつけば、1時間あまり、食い入るように映像を追い、必死にイチローの言葉を追いかけていた。
イチローにとって初の長期密着取材という。そこには、34歳メジャー・リーガーの、プレッシャーと必死に戦う孤高の姿があって、「うーん、すげぇ〜」と何度もうなってしまった。彼のまわりには、まるで修行僧のような静かな深い思考が漂っていた。
2007年秋、彼はマスコミがつくりだした「過去のイチロー」との決別を決め、フォームはもちろんのこと、考え方そのものの転換を模索しはじめたのだという。イチローは、そのイメージとは反対に、プレッシャーを受けると脈があがり、呼吸が苦しくなって、吐き気がすることすらあるという。けれども、プレッシャーからどうせ逃げることができないなら、正面から向き合うことを決めたのだという。「必要な技術については自信がある」と語るのはさすがイチローである。
フォームについての話も面白かった。野球はまったくシロウトである奥さんの、「もう少し下がったら景色がかわるかも」という何気ない一言が、フォームを変えるきっかけになったという。ほんのちょっとしたことで、「景色」というか「世界」の見えが変わる ─ 。記録そのものではなく、世界の見えを主体的に変えていくことに、勝負師として新たな境地を求めているイチロー
そして、モギケンの「大リーガーとして前人未踏の記録を残しているのに、その先に何を目指しているのですか」との問いに対しては、「自分の達成感に向けてです」ときっぱりと言い切るカッコよさ。それは、「見えないものをつかみにいく」ことであるし、「必死に求めていかないとつかめない何か」であるという。いまだ誰も表現しえていない、「見えないもの」「語れないもの」に向けて突き進んでいく、まさに行者の姿がそこにはあった。
そして、「7年間、お昼は毎日、奥さん手作りのカレーライス」というのもまた意味ありげだった。規則正しい生活をおくるイチローにとって、「毎日カレー」は規則正しさの象徴なのだろう。それは、「球場に入り、決まったとトレーニングメニューをこなしているうちに、無意識のうちにプロ・プレイヤーとしてのスイッチが入る」という発言とも符号しているように思った。
今年の「イチロー」は、マスコミや世間ではなく、「鈴木一朗」がつくる「別物のイチロー」となるにちがいない。向こうのファンがどれほど理解してくれるかは別にして、こんなクールな人間を世界の檜舞台に送り出すことのできる日本はまだまだ捨てたもんじゃない。
最後のほうで、住吉美紀さんの「イチローさんにとって、なぜ野球だったんですか」との問いに対し、イチローは「子どもの頃、最初に出会ったカッコいい人間が野球をやる大人だったからです」と答えた。その言葉には、偶有的な出会いにみちた人生の機微がたっぷりと含まれていた。生きるということは、誰にもコントロールできない、無限の空白があるから面白いのだ。
気合いの入った正月番組を届けてくれるNHKに感謝である。余談ながら、イチローの後は、NHK教育で「知るを楽しむ・こだわり人物伝スペシャル」を見た。チェ・ゲバラ開高健夏目漱石マイルス・デイビスの足跡をたどり、“格好いい男”の条件を探るというものであったが、泉谷しげる&姜在中という珍しい顔合わせが効を奏して、これも最高だった。

食べ・飲み・叩き・拝む

あけましておめでとうございます。
それにしても猛烈に寒いなかの年明けとなった。おまけに芥屋は玄界灘の寒風をくらい、一時は横殴りの雪も降ってきたりと大変だった。年末年始は息子(創作)と娘(はるか)も戻り、ひさしぶりに「一家4人プラス2匹」の団欒を楽しんでいる。そこで、この年末年始をちょっと振り返ると、

30日は志摩町が誇る鉄の大工(iron worker)「松ちゃん」んちの鉄工所(松園製作所)で開かれた年末大鍋パーティに参加した。創作と一緒である。「芫」(清川の豚料理)の岡やん・愛ちゃんをはじめ、知り合いが何人かいたもののの、ほとんどが初対面。鉄の大工仕事に必要な工具やクレーンが整頓された鉄工所に、松っちゃん手製の巨大な鉄鍋や、炭火バーベキュー台がどんと置かれ、酒を片手に、総勢50名近くであつあつ鍋料理、焼きカキをむさぼり食っていった。中々ワイルドで壮観だ。何せ寒いものだから、食べそして飲まないと身がもたないのだった。

大阪は河内からはるばる来た、愛ちゃんの友人3人娘の特製お好み焼きもうまかった。そして、写真の面白さに目覚めてしまったという「カメラ小娘」トリオが、デジタル一眼レフカメラを首から下げてパーティ会場を動き回り、写真を撮りまくっていた。

晦日は、承天寺で除夜の鐘をつかせていただけるというので、22時すぎに家を出て、一家4人で寺へ。そこで、まずは年越しそばをいただき、23:45頃から鐘楼に集まり、一人一人交替で鐘をついていった。除夜の鐘つきは初めての経験であったが、鐘つき棒を思い切り引いて、鐘にどーんとぶつける時の感触と、グウォーンという大音響を夜空に放っていく気持ちよさといったら格別であった。上方はというと、最初のほうの数回をついただけで、「あとは皆さんでどうぞ」とあっさり楼を降りていかれた。禅寺にとって、除夜の鐘はそれほどの意味はないのかも知れない。

それよりも、承天寺の鐘楼ならびに鐘が、かつて志摩町の桜井神社から移設されたもので、わが町・志摩と承天寺の間に縁があることを知り驚いた。ちなみに鐘には「檀信歸崇 諸縁吉利」「山門鎮静 火盗潜消」という文字が記されていた。


年が明けて、2日。一転して穏やかな天候となった。正月くらいお茶をたてましょう、というカミさんの提案で、やわらかい日差しをうけつつ、ファミリー茶会を行った。母娘は着物である。手前味噌だけれど、結構なお点前でした(^_^)。

そして、お茶をのんだ後は、母娘をつれて桜井神社に初詣。本殿周辺は参詣者で一杯であったが、少し上ったところになる大神宮(社殿)は、伊勢の内宮と外宮を模して合祀したものだそうで、うっそうとした杜に囲まれた“パワースポット”の気が大いに漂っていた。それから、除夜の鐘のことが気になり、掲示などに承天寺鐘楼のことがないか探してみたが、関連する記載はなにも見あたらなかった。
 本殿前の参詣者
 物静かな大神宮
 ことほど左様に年末年始は、寺で拝み、神社でも拝んだ。心中、何を思い拝んだか。それは秘密です(笑)。

落ち葉をひろいつつ

今年の「芥屋らくかい堂」、振り返ってみると、最大の「事件」はやはりマンション計画騒動である。「承天寺の怒り」の第1回目(4月26日)の書き込みに、<「事件」は突然もたらされ、日々の連続した世界に裂け目を入れる。今回立ち会うこととなった事件は、おそらくこれからいろんな問題をあぶり出し、様々な人間模様を浮かび上がられていくことになると思う>と書いていたが、その予感は見事に的中した。どう的中したかは、(1)から(18)まで改めてお読み下さい。
 http://d2.hatena.ne.jp/rakukaidou/20070426


ひっそりとしたたたずまいのブログであるが、マンション計画騒動もあってか、毎日50名近い方々にアクセスしていただくまでになった。アクセス件数のうちで、多い時にはその半数以上が「承天寺&マンション」というキーワードで検索し、アクセスされたものであった。詳細は不明だけれど、東宝住宅関係者のアクセスも相当あったはずだ。いずれにせよ、同時進行ブログを実践することで、インターネットの可能性というか影響力を実感することができたぶん、大いに勉強になった。会社サイドを含め、かなりの数の人たちに、「伝統と現代」「文化とビジネス」のはざまの問題を考えていただいたのではないだろうか。
で、肝心の坐禅会のほうはというと、このところポツリポツリの参加にとどまり、「なんばしよっとやぁ!」とお釈迦様の怒りを買いそうだ。しかし、こちらがローギア状態であるのをよそに、坐禅会のほうはいつの間にか、「体験モード」から「修行モード」に移行し、置いてけぼりをくらいそうだ(笑)。12月初旬の夜間3日間にわたって行われた「接心」の行には、6名の仲間が参加し、1炷(火に主)1時間の坐禅を一日3本続けてやる行を3日とも完遂したというから驚いてしまった。
久しぶりの参禅となった27日の早朝坐禅会では、途中の休みなく1時間近くぶっ続けで座る方式に変わり、坐禅終了後は白隠禅師の「坐禅和讃」を皆で一斉に唱えるスタイルに一変、ぐっと緊張感あふれる朝の一時となっていた。しびれきった足を引きずりながらの、「いつの間に?」との問いに、先輩諸氏からは、「すごいでしょう」という余裕笑いが返ってきた。しかし、1炷1時間の坐禅坐禅和讃唱和は、修行モードでの厳しさがあるものの、とても気持ちがよかった。しかし、まだ1回経験しただけだ、エラそうな物言いは慎んでおこう。
そして、今年最後の坐禅会から2日おいた29日は、朝9時頃に寺に出向き14時頃まで、ふだん足を踏み入れることのない開山堂そばのお庭の掃除や本堂の雑巾がけなどを行った。大掃除には昨年末も参加したが、庭の落ち葉を掃き集め、お堂の扉などに無心に雑巾がけをしていると、すっきりした気持ちになるから不思議だ。掃き清めているのは、お寺なのか、はたまた我が煩悩か。
考えることは皆同じ。掃除の途中の昼食会で、そんなことがひとしきり話題となった。掃除をご一緒した山本さん・野田さんのオバ様コンビをお相手に、「庭の落ち葉は、お二人の煩悩の数ほどに多くてタイヘンでしたよねぇ」と突っ込むと、はたで聞いておられた上方から、「塵といえば」ということで有名なある禅語を紹介していただいた。 「本来無一物」。五祖引忍が後継者を決める時に六祖慧能が発した言葉である。そのくだりというのは、上方の話とネット検索の結果を合成すると、概ね以下のような内容である。


達磨大師を初代とする中国禅宗の第六代目(六祖)を決めるに当たり、当時、最上座にあった神秀が「我々の身は悟りの花が咲く菩提樹のように素晴らしいもの。心も研ぎ澄まされた鏡のようなもの。いつも努力して煩悩の塵を拭き去るようにしなければならない」と説き、さすがと絶賛された。しかし、それは究極ではないと思った慧能は、身分も最下位で新参者であったけれども、断固、「我々の身は菩提樹ではなく心も鏡のようなものではない。本来 何も持ってはいないのだから煩悩の塵などはふりかかりようがない」と正反対の事を言い放ったという。五祖引忍はそれを絶賛し慧能を六祖に決めた。


「そうか」と庭の塵一つにも仏教の深い教えが隠されていることを知らされることとなった。「坐禅中も次々に煩悩がめぐってしまって・・・」「煩悩を払おう思うことじたいが煩悩、そう簡単にいきませんよ」。オニギリ、汁、芋の天ぷら、川茸の酢の物などを6〜7人で囲む和やかな食卓は、いつのまにか厳しい禅の世界の風に、ほんの少しだけ包み込まれていた。そして、来年は気合いを入れて参禅したいものだと、緊張感と期待感を募らせたことだった。

承天寺の怒り(18)資料編その2─ 関係者への「ご挨拶」

年の瀬押し詰まるなか、承天寺隣接地・東宝マンション建設計画問題の経過報告と御礼ということで、会社・市との協議をすすめてきた地元世話人会の名前で次の「ご挨拶」が地元関係各位に配布された。「計画凍結・白紙撤回」が最も相応しい対応であることと、「境内分断道路の返還」を含めて実効性ある景観形成が早急になされること。挨拶文はこの2点を改めて明確に主張している。この2点が実現されない限り、「承天寺の怒り」は鎮まりようがないことを改めて確認しておきたい。
 


ご 挨 拶


謹啓 師走の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
平素より、格別のご厚情を賜り、厚く御礼申し上げます。
さて、四月二十六日より始まりました承天寺隣接地の東宝マンション建設計画にともなう景観問題におきましては、福岡市への陳情ご支援をはじめ建設計画関係者協議へのご参加等ご尽力を賜りまして誠にありがとうございました。
おかげさまにて、計四回のマンション計画検討会を実施し、地元関係者、東宝住宅および福岡市都市景観室との協議の結果、十一月十二日に東宝住宅より、条例(凡そ高さ二十メートルを目途とする制限)に適した事業採算計画が困難であること等を理由に土地活用検討等には今後十分な時間を要するため、これまでの関係者間協議を中断したい旨の申出がありこれを承認することとなりました。なにぶん、いまだマンション等建設中止の決着に至った訳ではございませんが、当面景観を保全できる事となりました。多くの良心に支えて戴きましたことに衷心より感謝申し上げます。
これからも地域の歴史・文化の特性を活かしたまちづくりに関しまして実ある企業としての社会貢献的配慮が示されることを期待しておりますし、地域とともに広く市民の理解とご協力を戴けることを祈っております。
また、博多の歴史が示す報恩ある名刹承天寺への顕彰を考えるに計画凍結・白紙撤回が最も相応しい対応であると存じておりますし、過去の都市計画が課題を残す境内分断道路の返還を含めて実効性ある景観形成が早急になされることを真に願っております。当地域は古くより外国との通い合う交流があり、禅文化を迎へ送り出した歴史的特徴があり、そのような博多発祥の歴史と文化を礎とした、心豊かな発展こそが市民の切なる願いであると確信しております。
どうぞ今後とも、ご指導ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。
本来ならば拝眉のうえ御礼申し上げるところでございますが、年の瀬押し詰まり、甚だ恐縮でございますが書中をもちまして、簡単に経過ご報告と御礼のご挨拶を申しあげる次第でございます。
末筆ながら皆々様の御健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
謹白


平成十九年十二月吉日

世話人会   
    博多駅前一丁目 自治会長    野中俊一郎
    川上音二郎世話人会代表世話人 長谷川法世
    その他一同                


皆様のご恩情に深謝申し上げます
どうぞよき年をお迎え下さいませ

    萬松山勅賜承天禅寺 住職 神保 至雲